A lot of water has flowed under the bridge
「あっ、つ〜〜〜い…………」
8月上旬の登校日。HRも終わって、生徒たちが一人また一人と帰っていく中、夕未は自分の机に突っ伏してひとり愚痴をこぼしていた。
「なにが『暑い』よ。このくらい我慢したら?」
そこへ遥がやってくると、彼女はぐったりした弓の頭をわしづかみにして机に擦りつけた。
「でも、実際に暑いじゃない。エアコンくらいかけてくれたって罰は当たらないと思わない?」
確かに、教室の中は窓が全開にしてあるにも関わらず蒸し風呂のように暑くむせかえっている。元気にしている遥でさえも汗が止まる様子はなく、既に制服のシャツには大きな染みができている。
「その前に暑いのに負けない体を作ろうとは思わないわけ?」
「今からじゃあ、もう手遅れよ」
遥はため息をついた。元々夕未が暑さに弱いのは分かっていたが、ここまで来るともう始末に負えない。
「まあ、確かに予報じゃ今年一番の暑さ、とか行ってたけど……でも、そんな調子じゃバテちゃうよ?」
「うん……」
「…………もう、バテてるか」
苦笑いをする遥。夕未はまだ机に突っ伏したまま動こうとしない。
「それにしても不健康すぎる身体だよね。これじゃあまるで白豚じゃん」
遥は夕未の右腕を取って持ち上げた。ちょっぴり冷ややかな彼女の二の腕の表面は、弾力があるというのを通り越して、まるでふやけてしまったかのような感触である。
「豚とか言わないでよ……私だって気になってるんだから……」
「……もしかして、また?」
「うん、4キロ」
「うわ……」
水太り。元からつきやすい体質の夕未は、この時期になると必ず体重が増えていた。しかしながら、今回のあまりの増えようには、さすがに遥もただ唖然となるばかりであった。
「まだ8月になったばかりだよ? 一体何キロ増やすつもり?」
「増やしたくて増やしてるわけじゃないもん」
ぷくっと頬を膨らませてむくれる夕未。一方の遥は、すっかりクセになっているのか、その夕未の二の腕をしきりに揉み続けている。
「9月になったら80キロになってましたー、とか言わないでよ? また『プクプク』とか呼ばれたいの?」
「そ、それだけは嫌!」
たまらず夕未が机を叩いて起きあがる。
「冗談だってば。っていうか、本気でそこまで太る気?」
「うっ……」
夕未は言葉を詰まらせると、再び腰を下ろして机に突っ伏した。遥はその夕未の首を後ろからつかんで、彼女の頭を持ち上げた。
「ほらほら、もう帰るんだから座らないでよ」
「もう、いいもん……。さっきみたいに意地悪言われるくらいなら、一人の方がいいもん……」
見上げる夕未の瞳には、今にも堰を切って溢れ出てきそうな程に涙がたまっていた。よほど先程のことがこたえたらしい。遥は頭を抱えてやれやれとため息をついた。
「ああ、もう。分かったわよ。さっきのことは謝るから! だから……」
「はーるか〜〜っ!!」
「……っひゃあああっ!?」
いきなり後ろから抱きつかれて、遥は素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「〜〜〜っ! いきなり何すんのよ! びっくりするじゃない!」
遥は抱きついてきた少女、真帆を強引に引きはがして怒鳴りつけた。
「え〜? いいじゃない、ちょっと抱きつくくらい。ただのコミュニケーションだよ〜」
まったく悪びれた様子もなく真帆が切り返す。
「よくないわよ! 暑っ苦しいんだから!」
遥が懸命に叫ぶが、真帆はまったくこたえる様子もなくケロリとしている。元からいくら叩いてもへこむことのない性格なのは分かっているが、こうも手応えがないと、怒鳴るだけ馬鹿らしくなってくる。
「ねえねえねえ、そんなことより、二人とも今日これからヒマ?」
「……そんなこと……?」
さらなる追い討ち。腰砕けになった遥が夕未の隣に顔を埋めてへたり込む。
「今日? ……うん、私は特に何もないけど。遥は?」
「あたし? ……うーん、ゴメン、今日はムリ」
「えー!? なんで!?」
いやに大きな声を上げ、真帆が遥に詰め寄った。
「なんで、って言われても……お店の手伝いしなくちゃいけないから。今日から3日間、梨花さんが実家に帰らなくちゃいけなくなったから。ただでさえお客の多い時期なんだから、ヒマどころか猫の手でも借りたいくらいよ」
遥はさりげなく真帆の手を取った。しかし、その手をすぐさま真帆が払いのける。それでもめげずに、今度は夕未の方へと手を伸ばす遥。
嫌な予感がして、夕未は椅子を蹴飛ばしながら立ち上がって、遥との間に距離を置いた。
「何で逃げるのよ!?」
遥がむっと口を尖らせる。
「だって、私に手伝わせようとか考えてるでしょ?」
「いいじゃん。友達でしょ、助けると思って! ちゃんとバイト料も出すから! ……たぶん」
「た、多分って……」
「ね、お願い! 手伝って! 梨花さんが帰省してる間だけでいいから!」
夕未の腕にしがみついて必死にせがむ遥。すっかり困り果てて夕未は天を仰いだ。
「う〜〜ん……」
こうまでして頼み込まれると、断るに断れない。それに元より断るような事情があるわけでも(残念なことに)ない。加えて、夏休みに入ってからは家に、それも自室にこもりっきりだった体を動かすにはいい動機付けでもあるし、何より、手伝いをしている間は家の光熱費も浮くときた。
「……もう、仕方ないわね。でも、私たちで勝手に決めるような話じゃないから、ちゃんとおじさんに相談してからよ」
それでもギリギリまで渋った様子を見せながら、夕未は遥の願いを聞き入れた。
「ホント!? ありがとう、夕未!!」
遥が夕未の手を取って、これでもかと言わんばかりに激しく上下に揺さぶる。
たっぷり気の済むまでそうしてから、遥はくるりと後ろを振り向いた。
「ねえ、真帆……」
「ぜっっっっっったいに、イヤ」
キラキラと期待に目を輝かせる遥の言葉を強引に遮って、真帆が無下に拒絶する。
「まだ何も言ってない!」
「何も言わなくたって、さっきまでの見てたら分かるってば。あたしはお手伝いなんてゴメンだからね」
「ケチ」
遥がまた口を尖らせる。それをそ知らぬ顔で受け流す真帆には、何をしたところで効き目がないのは最初から分かり切っているので、遥もそれ以上はアプローチをかけようとはしなかった。
「ふん、もういいもん! こんな薄情者は放っておいて、あたし達はあたし達で帰ろ。お父さんに相談もしなくちゃいけないし」
遥は机にあった鞄を夕未に強引に押しつけると、彼女の手を引っ張って足早に教室を出て行った。
「あっ、待ってよ、遥ぁ〜〜っ!!」
ひとり置いてきぼりにされた真帆は、慌ててその後を追いかけていった。
翌日──
喫茶店『東の叢雲』は、朝から多くの客で賑わっていた。
「いらっしゃいませー! 申し訳ありませんが、ただいま満室になっておりまして、少々お待ち頂かないといけませんが、よろしいでしょうか?」
「あー、満席か。どれくらいかかりそうかな?」
「ええと……15分ほどかかるかと思いますが」
「そうか……じゃあ仕方ない。また来ることにするよ」
「申し訳ありません。ありがとうございました」
「ちょっと、夕未ー! 3番に行ってオーダー取ってきてくれなーい?」
「うん、分かったー!」
休む間もなく、次から次に仕事が回ってくる。夕未も遥も、朝から仕事に追われるようにして駆けずり回っていた。
「ありがとうございましたー!」
4人組の家族連れ客を送り出し、ようやく人の流れが落ち着いたと思ったときには、時刻は既に午後の5時半を回っていた。
4人分の食器をトレイに載せ戻ってきた夕未は、それを店主であり遥の父である浩二に渡すと、大きく腕を伸ばしてカウンターの上に突っ伏した。
「あー、疲れたー……何なのよ、この慌ただしさは!?」
「だらしがないなあ、夕未は。……ま、でも間が悪かったのはあたしも認めるけど」
丸テーブルを拭いていた遥は、大きな窓ガラスの向こうに広がる通りの景色を見た。
決して大通りというわけではなく、普通車がようやくすれ違うことのできる程度の幅の表通りは、大型車両の通行が禁止になっている。街路樹の植えてあるブロック敷きの歩道はやや広めに取ってあり、店の横手には同じような風体の遊歩道が延びている。
住宅街の中の一角で、周囲には戸建ての民家が多く、落ち着いた感じの通りなのだが……
遥の視線は向かい側に立ち並ぶ住宅の山を乗りこえて、その先の白く大きな建物に向けられていた。
「あそこでイベントなんてやってなければねえ……」
遠い目をしてその市営のホールを見つめる遥。
今日はそのホールで何かしら催し物をやっていたらしく、その人の流れがこちらにも及んできたためにこの忙しさになった、というわけである。
「うう、ひどいよぉ……。何もこんな時にイベントなんてやってなくてもいいじゃない」
「ほらほら、文句言わないの。後から予定を入れた方が悪いんだから」
「……ねえ、遥。もしかして、今日忙しくなるの、知ってた?」
「うん。なんか昨日の朝、梨花さんが『忙しくなると思いますけど、頑張って下さいね』って言ってたから。その時は何のことだかさっぱり分からなかったけど」
「そんなひどい!! 知ってて誘うだなんて!」
拳を握って吼えたてる夕未。するとそこへ、ベルの音をたてて新たな客が入ってきた。
「いらっしゃいませー! ほら、夕未。お客さんが来たから仕事、仕事!」
「鬼! 悪魔ー!」
夕未は体を起こすと、手元にあったメニューボードを持って泣く泣く接客に走っていった。
結局、その後も人の流れは途絶える事無く、閉店間際の8時まで夕未はこき使われることになった。
「…………はぁ」
夕未は客のいなくなった店内で、カウンターテーブルを拭きながら大きな溜息をついた。既に外は真っ暗である。
「悪いね、すっかり忙しいのにつき合わせてしまって」
見るからに疲労困憊といった夕未に浩二が声をかける。
「あ、いえ、いいんですよ。元はと言えば私がやると言ったことですし。でも、後で遥にはしっかりと仕返ししておきますけど」
夕未は遠くでメニューの整理をしている遥の背中を睨みつけた。浩二はそれを見て思わず苦笑いを浮かべる。
「夕飯はどうするかな? 食べていくかい?」
「いいんですか? それじゃあ、お願いします。あ、じゃあ家に連絡入れないと」
夕未はカウンターの裏側に回ると、軽く手を洗って奥へと入っていった。家屋の一部を店舗にしているこの店では、カウンターの扉を抜けるとすぐに家の廊下に繋がっていて、その一番手前の部屋を控えの部屋として使っている。
夕未はその部屋に置いた鞄の中の携帯で家に連絡を取ると、足早に店へと戻ってきた。長いような、忙しすぎてあっという間だったような、そんな初日だったが、その仕事も取り合えずあと15分ほどで終わる。
客のいない店内と、客の入ってきそうにない静かな通りを交互に見て、夕未はほっと一つ息をついた。
「……遥ぁ……明日もこんなに忙しいようだったら、私、問答無用で帰るからね」
夕未はカウンターの椅子に腰かけていた遥に後ろから近付くと、その頭を軽く小突いた。
「ごめんごめん。大丈夫、明日はこんな事はないと思うから。それに、本当に忙しくなるだなんて、あたしも思ってもみなかったもん」
手を合わせて頭を下げる遥。夕未は目を細めてその遥を見下ろした。
「ほんとぉ……?」
「うん、ホントホント。今日のことは反省してるし、それにすっごく助かったと思ってるから……ね、許して!」
「うーん……」
しきりに頭を下げて陳謝する遥。理不尽なまでに忙しかった今日一日と、目の前のその遥の様子を秤にかけて悩む夕未。
その時、静かになった店内で、けたたましく鳴らされるベルの音が響いた。
「……あ、お客さん」
「うそぉ!?」
つい叫んでしまった。まずいと思い、夕未は咄嗟に口を押さえる。
二人は慌てて姿勢を正すと、メニューを持って店の入り口に駆けつけた。
「いらっしゃいま……」
店先に来ていた人の姿を見て、二人は揃って目の前が真っ暗になったような感触を覚え、お互いにもたれ合うようにしてその場にへたり込んだ。
「……どしたの、大丈夫?」
膝を少し屈めて、やってきた客──真帆は、倒れ込んだ二人を見つめた。
「…………ど、『どしたの』じゃないわよ、まったく……一体何の用よ、こんな時間に……?」
夕未が倒れ込む遥の体を引き起こす。明らかに歓迎されてないその様子に、真帆がぷうっと頬を膨らませる。
「むー……折角いい話持ってきたのにー。お昼は忙しいって昨日言ってたから、こんな時間になるまで待ってたのにー」
「いい話……?」
「いいもんいいもん。かわいそうな真帆ちゃんは二人の鬼娘にいじめられて追い出されてしまいましたとさー」
くるりときびすを返して店を出ようとする真帆。
「ああ! ごめんごめん! 謝るから機嫌直して!」
このまま彼女を放っておいたら後々どうなるか分かったものではない。慌てて夕未は真帆の肩をつかんで引き留めた。
「うん、分かったー」
いともあっさり振り返る真帆。彼女の顔に浮かんだ満面の笑顔を見るにつれ、ふつふつとやり場のない憤りがこみ上げてくる。
「それじゃあ適当にその辺にでも座って待ってて。あとちょっとで仕事終わるから」
「はいはーい」
遥が店内を適当に指差すと、真帆は小走りに奥の方のテーブル席へと向かっていった。心なしかその後ろ姿がいつも以上に弾んでいるように見える。
「……今日一日、ヒマを持て余してたのかな?」
「引きずってでも手伝わせればよかったね」
揃って肩を落とし深い溜め息。今日一日の疲れが一気に何倍にも膨れ上がったような気がしてきた二人であった。
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