Arithmetical Catastrophe

 駅から徒歩五分。学校案内でも売りとして出されるくらいの便の良い場所に、遥たちの通う高校はある。
 駅前の通りには商店が建ち並び、この時間帯は終業直後の学生達が溢れかえっている。典型的な学生街の夕方前の光景だ。
「うーん……」
 その駅前通りの書店で、遥は両手に取った本と睨み合いをしていた。
「やっぱり、こっちの方がいいのかなあ。でも、こっちの方が安いし……」
 彼女が手にしている本のどちらの表紙にも、わかりやすい大きさと書体で『数学II・B』と書いてある。
 参考書。
 二冊の厚さはどちらも同じくらい。彼女が安いと言っていた本の方が、デザインからして取っつきの良さそうな印象がある。
 しかし、
「でも、先生はこっちの方がいいって言ってたんだよねー」
 もう一冊の方を持ち上げて、今一度うなり声を上げる。
 今日、職員室で数学担当の教師に質問をしに行った際に、「自習に使うならこの本がいいぞ」と見せられた参考書だった。そこそこのランクの高校から、中堅どころの進学校まで、比較的幅広く使われている参考書らしい。そう言えば、夕未もこの『IA』のやつを持っていたような覚えがある。
 なのだが、
「だけど、やっぱりちょっと高いなあ。それにあたしと夕未じゃ、頭の出来がちょっと違うし……」
 こう言っては何だが、遥は理系科目に関してはかなり出来が悪い。特に数学に関しては、平均点が取れれば御の字といったところだ。
 別に夕未も理系に秀でているわけではないが、それでも彼女は全科目に渡ってそつなくこなしている。少なくとも夕未の口からは、理系が苦手という話を聞いたことはない。だから、毎度テストの時には夕未に理系科目を教わっているのだが、今回はテスト範囲が狭いこともあって『今度のテストは夕未に頼らないで頑張ってみせる!』と大見得切ってしまった手前、今更後に退く気にはなれずいにた。
 ところがいざ蓋を開けてみれば、手垢どころか折り癖すらまともについていない新品同様の教科書や、小ぎれいにまとまっているように見えて実態は板書丸写しのノートだけでは、もう何が何だか。遥にはさっぱりお手上げの状態であった。
 最早、問題を解こうなどというレベルではない。
 そこで一からやり直そうという結論に達し、先生に直接質問に行き、そして現在に至っている。
 こんな有様だから、内容の目測を見誤れば参考書一冊分のお金が丸損、という結果にもなりかねない。一冊1500円超は馬鹿にならない出費だ。無駄な投資をするくらいならば、少しでも来たるべく夏のレジャーでかかる出費に回したいものだ。
「うー……やっぱりオススメだって言われたんだから、こっちの方が無難なのかな? うん、そうしよう」
 ひとしきり独り言を言ってから、ようやく腹をくくり、遥は買わない方の参考書を棚に戻してレジに向かっていった。
「うわ、何この行列」
 レジの前には長蛇の列。
 遥は思わず一言うめいて体を仰け反らした。列の先頭の様子からして、何かしら手続きをやっているようなのだが、新人なのだろうか、応対をしている店員の手つきがいかにも拙い。
 この分だと相当時間がかかりそうである。レジが二つあるのだからそっちにでも、とも思ったのだが、よくよく見るともう一方のキャッシャーには『故障中』と書かれた張り紙が貼ってある。否が応でもこの行列の最後尾に回るしかないようだ。遥はため息を一つついて、最後に並ぶ男性の後に着いた。
 程なくして、もたついている店員を退けるようにして別の店員がレジに押し入り、横で手続きをさせている傍らでその店員が購入客の応対を始めた。それからはスムーズに列が進むようになり、遥が想像していたよりは大分早くレジを通すことができた。
 紙袋に詰めて貰った参考書を鞄に収めながら店の外に出て、遥は会計中に横で耳にした会話のことを思い返した。
「どこにでも数字の苦手な人っているんだなあ」
 宅配だか注文だか、何やらそういった類の手続きをしていたようだが、どうにもその店員は思うように数字が出せないでいたようである。
 そのあまりの手際の悪さに、相手の客もかなり辟易している様子だった。
 自分も大概数字の扱いは苦手なので、遥はそれが我が身のことのように思われて苦笑いを浮かべた。
「あんな感じでも、ちゃんと社会で通用する道もあるんだろうし、こんなのできたところで無意味だと思うんだけどなあ」
 鞄の中の紙袋に一瞥を投じ、無理矢理なこじつけで自分を安心させてみる。
 なんだかそんなことをする自分が虚しく思えて、もう一度ため息混じりに遥は苦笑した。

「あれ?」
 家に戻った遥は、ガラス越しに見える店内の様子に首を傾げた。
「お父さん……何やってるんだろ?」
 遥の父で店主の浩二が、いつもいるカウンターではなくテーブル席に就いて何かをやっている。たまたま谷間に入っているのか、周囲には客は見当たらない。
 遥はいつも入る裏口からではなく、店の入り口を開けて家に入った。
「ただいまー」
「ああ、お帰り。どうしたんだ? お店の方から入ってくるだなんて」
「うん、何となく。お客さんもいないみたいだし、いいでしょ。それよりお父さん、何やってるの?」
 遥は浩二のいるテーブルにまっすぐ向かうと、横からのぞき見るようにしてテーブルの上に目を向けた。
「……何これ。履歴書?」
 遥はそこに並べられていた書面を見て、眉を寄せた。
「あ、このお姉さん、きれーい」
 履歴書の一枚に貼られていた写真を見て、遥がやや色めいた声を上げる。触り心地の良さそうなセミロングの髪と、眠たそうに見える双眸が印象的な女性だ。
 書面には18歳と書いてある。大学の一年生だろうか。
「何、お父さん。モデル事務所でも開く気?」
 突拍子もないことを言われて、浩二が思わず吹き出した。
「馬鹿言うもんじゃないよ。店で雇おうかと思っていてね」
「店って……ここ?」
 何となく理解が出来ないといった様子で、遥がしきりに目をしばたたかせ、足下を指さす。浩二は間髪入れずに頷いた。
「そうだよ。この前、テレビの番組で近くのお店が取材されていただろう」
「うん、うちもよく行ってるパスタ専門店だよね」
「それの波及効果かどうなのか、うちも最近急に客が増えてきてねえ」
「ああ」
 なるほど、そういうことだったのかと、遥は頷いた。
 実際、急増した客を遥も目にしている。先日の連休は、まさに火も出んばかりの忙しさであった。とても回しきれなくなったので、例によって夕未と、それから普段呼ぶことのない真帆にまでヘルプを要請した次第である。
 件の放送が流れたのは四月の末。
 その時は三人で理不尽だとぼやいていたものだったが、浩二の説明を今聞いて今ようやく合点がいった。
「それでアルバイトを雇うってわけ?」
「まあ、それだけじゃないけどね。ほら、いつも何から何まで梨花君一人に任せているだろう。しかも、店のことだけじゃなく、家のこともやってくれているし。あまり彼女一人に任せっきりにするのも、申し訳ないと思ってね」
 実際梨花はよくやってくれている。
 いつもおっとりとしていて頼りなさそうな印象があるが、それでいて家事雑用に関しては魔法でも使っているのではないかと思わせる程に手際がよい。また、今の遥くらいの年頃から十年近く、この家に住み込みで世話になっているので、家のことも店のこともよく知り尽くしている。もし彼女が抜けでもしたらと思うと、何ともぞっとしない話である。
 一方で、彼女一人だけでは追いつかない日があるのも事実である。特に店の増築を施した二年前からは、それが顕著に表れてきている。それに、彼女に任せっきりな現状は、遥もいささか懸念をしていた。
「でも、梨花さんは納得してくれるのかなあ?」
 ところが、心が広そうに見えて意外とこだわりがあるらしく、なかなか妥協を許してくれない時も彼女には多々ある。
 それなのにあまり外部の人間を連れてくるのはどうだろうか、と、遥は首をひねった。
「うーん。だから梨花君には内緒にして、こっそりとここまでは取りなしてみたんだが……」
「え、梨花さんにはこの事、言ってないの?」
 無言で浩二が頷く。
 まあ分からない話でもないのだが……難しい表情をして、遥は浩二と一緒に腕組みをしてうなりだした。
「アルバイトさんを雇われるのですか?」
「うわっ!」
「うひゃあっ!?」
 突然、すぐ背後から話題にしていた梨花の声がして、二人は驚いて飛び上がった。
「り、梨花さん……聞いていたの!?」
「ええ、先程から、ずっと」
「先程って、いつから?」
「ええと、『モデル事務所でも……』というところからでしょうか」
 ほとんど一部始終である。参ったと言わんばかりに二人は頭を抱えた。
「まあ、聞かれてしまったものは仕方ないか。そういうわけなんだがね、梨花君はどう思う?」
 開き直った浩二が、素直に梨花に問いかける。
 梨花はあご元に手を当ててしばらく黙考していたが、やがていつものようににっこりと一つ微笑むと、
「ええ、いいと思いますよ」
 いともあっさりと同調してくれた。
 あまりに意外な答えに、浩二も、遥も、口を半開きにして固まってしまった。
「ですけれど」
 まだあ然としたままの二人に対し、梨花は人差し指を立てて付け加えた。
「雇われる前に、そのアルバイトさんに、私とも面接をさせてもらえませんか。そこで私がうまくやっていけそうだと判断できたら、雇ってください。それが最低条件です」
 なんだか妙な話になってきた。
 父娘は互いに顔を見合わせて複雑な表情になった。

「へえ、そんなことがねえ……」
 後日。帰り道で遥はその時のことを夕未に説明した。
 話を聞いた夕未は、一つ鼻を鳴らし、それから妙に愉快そうに小さく笑った。
「……なんか楽しそうね」
 もう一度、夕未がくすくすと忍び笑いをする。
「だって、いかにも梨花さんらしいなあ、って。なんだかかわいらしいと思わない?」
 楽しそうな夕未の表情と対をなすように、遥は顔いっぱいに苦渋の表情を浮かべた。
「あのねえ、頭抱える方の身にもなってみなさいよ。もう大変なんだから」
 頭を抑えて一人地団駄を踏む遥の様子を見て、夕未がまた小さく笑い出す。それを見てしゃくに障った遥の目尻がおもむろにつり上がる。
「ごめんごめん。それで、その面接っていうのはいつなの?」
「今日。夜の七時半からってことになってるんだけど」
「ふうん。何とかして丸く収まってくれるといいね」
「うん……そだね」
 遥には何とも歯切れの悪い返事を返すことしかできなかった。

 夕未と別れて家に帰った遥は、自室の机に置かれた参考書を見てため息をついた。
「もう、こんな状態だと、何にもやる気が起きないよ」
 参考書は袋から出されたままの状態で置いてある。買ったその日から勉強を始めようとしたものの、ただでさえ乗り気のしない所に、すっきりしない気持ちも相まって、まったく手をつける気が起こらなかった。
 まだテストまでは日数もあるが、それでも自分の理解度を考えると、そろそろお尻に火がついていてもおかしくない頃である。
「とりあえず、範囲の確認だけでもしておこうかな……」
 遥は椅子を引いて腰掛けると、足下に置いた鞄から教科書とノートを引っ張り出して、机の上の参考書の横に並べた。
「うー……」
 教科書の最初の方、一、二ページを見ただけで、もう目まいがしてきた。どこからどう手をつけたらいいのかも、さっぱり分からない。
「うーん、やっぱり意地張らないで夕未に頼った方がいいのかなあ?」
 まだ何も始めていないのに、最早決意が折れてしまったようだ。遥は鞄の再度ポケットに手を入れると、そこから携帯を取り出して、夕未に電話をかけようとした。
 ピピピピピピピピ……
「……げっ」
 小うるさい音が鳴り、それから間もなくして携帯の画面がブラックアウトする。
 充電切れ。
 よりにもよってこんな時に。遥は頭を振って深いため息をつくと、席を立って充電器を探し始めた。
「あれえ。いつもだとここかあそこに置いてあるハズなんだけどなあ……」
 机の上を漁り、引き出しの中を漁り、タンスの中を漁ってみる。しかし、どこを探してみても充電器が見つかる様子はない。
「うーん……」
 最後にタンスの最上段を探してから、遥は床に腰を落としてうなり声を出して回想を始めた。
 最後に充電をしたのは連休最後の日。その日一日の行動を振り返る。
「あ、そうだ」
 思い出した。
「梨花さんがお掃除してたから、下でコンセント借りたんだっけ」
 どうもその時のまま置きっぱなしになっているようだ。すっくと立ち上がって、遥は小走りに階段を駆け下りていった。
「……ん?」
 階段を下りきってすぐ、店の控え室に繋がる廊下の入り口当たりで、困った表情で話をしている浩二と梨花の姿を見つけて、遥は足を止めた。梨花の手には、店で使っている電話が握られている。
「どうしたの、お父さん、梨花さん?」
 ひどく気になったので、遥がそこに近寄って話しかける。
「ああ、遥か。いやね、さっき業者が来て納品を済ませたんだが、どうも数が合わないみたいでね……」
 腰に手をあてがって、浩二がため息をつく。
「そんなに大変な数違ってたの?」
 随分沈痛な面持ちをしているので、遥もさすがに不安になって眉をひそめた。
「いや、違っているのは一ケタくらいなんだけどね。ただ、ここ最近、間違えが多くて」
「申し訳ありません。私もとんと数字には弱い方でして……」
 梨花が肩をすぼめて深々と頭を下げる。店の在庫を確認して注文をする役割も、梨花が受け持っている。ただ、ここ最近の忙しさに、彼女も慌てて数を間違えてしまっているのだろう。
 梨花が数字に弱いのは遥もよく知っていた。レジは普段浩二が受け持っているのだが、慌ただしい時など何かしらの機会に梨花がレジに入ると、しばしばお釣りの数え間違いをやらかしている。計算力が甚だ劣るというわけではないのだが、のぼせ上がるとさっぱり駄目になってしまうらしい。
「でも、あたしもお父さんも、こう言うのはあんまり得意じゃないしね」
 それを聞いても浩二は何も言わずにただ苦笑を浮かべるのみである。
「本当に申し訳ありません……」
 もう一度頭を下げる梨花。浩二はその頭に軽く手をやり、髪を撫でてやった。
「まあ大した数じゃないし、気にしないで。次からは私も手伝うことにするよ」
「ありがとうございます」
「あたしも手が空いてたら手伝おうか?」
「ははは、まああまり期待はしないでおくよ」
 遥の提案は一笑に付されてしまった。思わずむっとして遥が頬を膨らませる。
「むう。それどーゆー意味よ!?」
 そんなやりとりをしているところに、不意に店の扉が開かれる音がして、三人ははたと会話を切り上げてそちらを振り返った。ついついいつもの習慣からか、遥までが接客をする者の表情になっている。
「……ほら、梨花君。接客、接客」
 浩二に諭されて、梨花ははっと我に返り、カウンター横にまとめて立てかけてあるメニューを一つ取って、慌てた素振りで来客の元に駆けていった。
「……珍しいね、梨花さんがあんなになるのって」
「うーん……やっぱりさっきのことを引きずってるのかも知れないな」
 二人は心配そうな眼差しで、店先に出た梨花の後ろ姿を見つめた。

「いらっしゃいませ。お客様はお一人様でしょうか」
「あー、いえ。先日、ここでバイトしたいって連絡入れたんですけど……」
「え?」
 やってきた女性にそう言われて、梨花は思わず傍らの時計に目をやった。
 ──6時53分。まだ予定の時刻より30分以上早い。
「……随分お早いですね。まだ七時前ですけれど……」
「あはは、そうなんですけど、何だか落ち着かなくって」
 その女性は服の裾をいじりながらちらちらと絶え間なく周囲を見回している。
 多分に気忙しい性質のようである。
 梨花がそう納得しかけたところで、彼女は初めて梨花に注視を向け、眠たそうなその眼を精一杯に大きく見開いた。
「あーっ! 水野先輩ですかっ!?」
「えっ? えっ??」
 周囲のこともお構いなしに、彼女が梨花を指さして大きな声を上げる。何が何だかさっぱり分からず、梨花はただうろたえるばかりである。
「先輩、覚えてませんか? 私、陶山(すやま)です! ○○女子の吹奏楽部の……!」
 言われて、梨花は自分の記憶を掘り返してみた。高校時代、彼女が所属していた吹奏楽部──彼女は卒業をしてからも何度か、OGとして同輩数人と共にその部に顔を出していた。そして、活動内容と関係のあるなしにかかわらず、後輩とのふれあいと称して色々とやっていたのだが……その際に、とりわけ彼女につき回っていた数人のグループがいた。その中に陶山という子がいたような記憶がある。
「覚えてませんか、先輩? ほら、合宿とかも一緒に行って……いろいろ悪戯とかもしてたじゃないですか」
「ちょ、ちょっと待って、陶山さん! 思い出したから、それ以上は……!」
 柄にもなく取り乱した様子で、梨花が女性の口を押さえた。
「あれ、梨花さんのお知り合いなんですか?」
 そこに遥の声がして、梨花は慌てて振り向いた。二人の横に立って見上げてくる遥の、その瞳が、妙に輝いているように見えてくる。その梨花の心中を知ってか知らずか、遥は視線を梨花から隣の女性に完全に移して、軽く頭を下げた。
「あなたが陶山順奈さんですか。初めまして。あたしは、この店の店長の娘で、遥って言います。あたしも時々はお店に出てお手伝いをすることがありますので、よろしくお願いします」
 たっぷりと丁寧に、そして口を挟ませる隙を与えずに自己紹介をして、遥は頭をもう一度女性──順奈に対して下げた。
「さあ、店先で立ち話もなんですから、奥に行きましょ」
 遥は腕を広げて、順奈を店の中へと案内した。そして、静かに立っている梨花を見上げて一言。
「さ、梨花さんも。面接官がいなくちゃ、話にならないもんねー」
 遥の表情は──見るからに楽しそうだった。

「陶山順奈、18歳。○○大学経済学部1年……へえ、経済をやってるんですか」
 テーブル席で向かい合って座る順奈と梨花。遥は梨花の隣に座って、すっかり静かになってしまった彼女の代わりに、履歴書に改めて目を通して内容を確認した。
「はい。将来は会計士になりたくって。初対面の人には、よく『鈍そう』とか言われるんですけど、こう見えて計算とか数学とかは大の得意なんです」
 渡りに船。
 昨日、国語の勉強中に見かけたその言葉が、遥の頭の中にぱっと蘇る。
「うわあ、ちょうどよかったです。実は、計算に強い人がいないもんかって、つい今し方相談をしていたばかりなんですよ。ね、梨花さん?」
 あまりにわざとらしく驚いて、遥が梨花に同意を求める。
「え、ええ……」
 苦し紛れに梨花が頷く。その一方で、降ってわいた朗報に、順奈が目を輝かせている。
「それじゃあ……!」
「梨花さん、採用しましょうよ、ね!」
「え、ええと……」
「嫌なんですか?」
 遥の言葉を受けて、さっと順奈の顔が青くなる。それを見た梨花が、ますます戸惑いの色を濃くする。
「そ、そういうわけじゃなくて、ね……」
「じゃあ、採用しましょうよ、ね! ね!」
「お願いします、先輩!」
 なぜだかは知らないが、テーブルから身を乗り出してまで必死になって訴える順奈。それからも梨花はしばらく黙り込んでいたが、やがて、二人の視線に根負けするような形で、彼女は小さいため息をついて頷いた。
「──そう、ですね。では、陶山さん、よろしくお願いしますね」
「ありがとうございます! 私、一生懸命頑張りますから、よろしくお願いします!」
 小躍りでもせんばかりに喜んで立ち上がり、順奈は梨花と遥の手を一本ずつ取って、激しく振り回し始めた。
「こ、こちらこそ……」
 そのあまりの勢いに、いつしか遥も気圧され気味になっていた。
「ところで、毎日可能と書いてあるんですけど、本当に毎日入れるんですか?」
「はい。明日からでも……いえ、なんなら今日からでもいいですよ!」
「きょ、今日はさすがに……こっちも準備をしないといけないんで。梨花さん、いつからになるかな?」
「そうですねえ。店長は月曜日からどうかっておっしゃってましたけど」
「陶山さん、それで大丈夫ですか?」
「はい、それはもう、いつからでも!」

 それからは、傍らで成り行きを見守っていた浩二も加わって、4人で順奈の入るシフトを決め、面接は早々と終わってしまった。
「それじゃあ、来週からよろしくお願いしますね」
 話を終え、席を立った順奈に遥が声をかけると、順奈は何かを一つ思い出して声を上げた。
「あ、一つ聞きたいんですけど。この辺に、不動産屋さんって、あります?」
「……は?」
「それはまた、どうしてですか?」
 突然の奇妙な質問に答えを返せない遥に代わって、梨花が順奈に尋ねる。
「えーっと、話すと長くなっちゃうんですけど、ともかく、事情があって、今いる下宿にいられなくなっちゃいそうなんで、別の下宿を探したいんです。それも、できるだけ安いのを」
 照れくさそうに話す順奈。その内容に、梨花までもが唖然となって、遥と顔を見合わせる。
「ああ、その事なんだけどね……」
 その時、思わぬ場所から声が挙がって、3人はそちらに顔を向けた。
「何、お父さん。もしかして、最初からこの事知ってたの?」
 口を軽く尖らせて、遥が浩二を睨みつける。
「まあ、いろいろあってね。それで、陶山さん。こちらで色々考えてみたんだけど、もしよければ、うちで下宿をすることにしないかな」
 浩二の提案を受けて、三人の目が揃って大きく見開かれた。
「お父さん!?」
「店長!?」
 遥だけでなく、梨花までもが、声を張り上げて浩二に詰め寄る。
「まあ、いいじゃないか。元々、家の敷地もあまっていることだし。大学も近いから、陶山さんにも都合がいいだろう。どうかな、陶山さん。もちろん、下宿する場合は、世話賃として給料から少々天引きはさせてもらうけれど」
「本当にいいんですか!? ありがとうございます! 今住んでいるところよりいいところが見つからなくって、どうしようか途方にくれていたところなんで、助かります!」
「それじゃあ、決定だね。部屋は明日までに空けておくから。引っ越しの準備とかしておくといいよ。それから、遥……」
 突然視線を向けられた遥は、嫌な予感がして咄嗟に目を逸らした。
「当日、陶山さんのところに行って、手伝ってきなさい」
「えーーーーっ!?」
 やっぱり。予感が的中して、遥は抗議の声を上げた。
「そういうこと言うもんじゃないよ。一緒に住むことになる人じゃないか。手伝ってあげなさい」
「はあい。ぶつぶつ……力仕事となると、すぐあたしに押し付けるんだから」

 3日後の土曜日──
 結局、最も都合のいい日を探した結果、土曜日に引っ越しをすることになった。幸い大型の荷物は少ないということで、順奈が友人の伝手をたどって軽トラック(と、その運転手)を借りて、それで搬送することになった。
「……で」
 頼んだトラックが到着するのを待つかたわら、アパートの入り口の壁にもたれかかって、彼女が低く呟いた。
「……どうして、あたしまで駆り出されなくちゃならないわけ?」
 何とも面白くなさそうな表情である。
「ごめんごめん。だって、夕未に任せたら潰されそうだし、真帆はいつものように薄情だし、あとこういうこと任せられそうなのは、さゆりんしかいなかったんだよー」
 いくら軽量とはいえ、2人や3人では、さすがに時間がかかりそうだったので、いろいろ声をかけて手伝ってくれる人を募ったわけなのだが……
「まあ、うちにいると勉強しろってうるさいし、テスト前だから部活もないし、どうしようか考えてたところから、かまわないけどさ」
 彼女、さゆりんこと杉田佐由理は、軽く手を振って答えた。
「勉強、ねえ」
 遥が浮かない表情で呟く。
「……ん、どうしたのさ」
「数学がさあ……もう全然進まなくって」
 遥の心配事はただ一つ、それに尽きていた。あれから参考書とにらめっこしながら取り組んでみたものの、思うように捗っていない。件のテストは次の週末。果たして、残りの日数でどこまでできるものやら。
「なに、そんなにひどいの?」
「うん、問題がもうさっぱり。公式は覚えたんだけど……答見ても全然分かんないし」
 頭を抱える遥を、佐由理が半ばあきれたような様子で見つめている。
「……あのさあ、ヤマイが言ってたんだけど。今度の数学、範囲狭くても難しいってよ?」
「何それ! 聞いてないよ!?」
 遥が佐由理に飛びついて叫ぶ。
 ヤマイというのは遥たちの高校で働く、山泉という数学教師のことである。ひょうきんで気さくな性格で、その上若く、生徒からよく慕われ、佐由理のクラスを受け持っているが……隣の遥のクラスは別の教師の受け持ちである。
「すごい楽しそうに話してたよ。『今度のテストは、いつもの倍くらい難しくしたって桃井先生言ってたぞ。みんな、成績が悪いからって自殺とかするなよー』とか言ってたし」
「そんなあ」
 一瞬、遥の頭を「赤点」の言葉がよぎった。期末テストで赤点を取ってしまおうものなら……7月いっぱい、学校に出て補習授業。そんな憂き目にあってしまう。
「……うん、うん。
 ……えーっ、それじゃあ15分くらい遅れるの?
 …………うん、分かった。それじゃあ、こっちにもそう言っておくから。
 …………うん。だから、できるだけ急いでね」
 二人で気の重い会話をしているところへ、携帯電話を片手に順奈がアパートの奥からやってきた。会話を終えた順奈は、ため息を一つ付いて携帯を閉じると、申し訳なさそうな面持ちで二人の隣に立った。
「あ、どうしたんですか?」
「うーん、ちょっとねえ。友達が、車の手配がうまくいかなくって、今向こうを出発したところっていうことなのよ。だから、もう15分くらいかかるみたい。ごめんね、待たせちゃって」
 順奈が手を合わせて軽く頭を下げる。
「いいんですよ、そんな。さゆりんもいいよね」
「……え? あ、ああ。うん」
 通りの向こうを観察していた佐由理は、突然声をかけられたことに驚いて、反射的に頷いた。
「ところで、さっき何か話してたみたいだけれど?」
「う……」
 順奈に言われて、再び遥が頭を抱える。同じように浮かない表情の佐由理に対し、一人事情を知らない順奈だけが不思議そうに首を傾げる。
「なに、どうしたの? 二人して黙り込んじゃって」
「テストの話、してたんですよ」
「テスト?」
「来週、テストなんですけど、数学が難しくってもうさっぱりなんですよ。このまま行くと赤点なんじゃないかと思うと、不安で不安で」
「ふうん。大変そうだけど、頑張れ頑張れ。ま、この時点でその様子だと、かなりキビしいだろうけど」
「ひ、ひどい……」
 順奈にあっさり痛いことを言われて、二人が揃って肩を落とす。それからしばらく何かを考え込む素振りを見せてから、順奈が軽く一つ手を叩いた。
「ねえねえ、そんなにヤバいんだったら、私が面倒見てあげようか、数学」
「えっ!? 本当ですか!?」
 遥の表情がにわかに明るくなる。
「本当、本当。杉田さん、だっけ。よかったらあなたも一緒に教えてあげよっか」
「えっ、あたし……?」
 目を丸くして佐由理が自分を指さす。
「うん。まあ平均点とかは無茶でも、赤点回避くらいはできるんじゃないかな」
 さりげなく痛い言葉を含んだ物言いを傍らで聞いた遥が、軽く頭を抑える。そんな言葉はさておいて、佐由理は頭まで抱えて目一杯悩んだ。正直なところ、佐由理自身も、遥以上に危険な状態であるだけに、この話は願ってもないことである。
「ほ、本当に、いいんですか……?」
 ためらいがちに確認する佐由理に、もちろん、と順奈が胸を張って答える。それからたっぷり逡巡してから、佐由理は心を決めて頷いた。
「そ、それじゃあ……お願いします」
 背に腹は代えられない。自分の家で、親にせっつかれ姉弟に冷やかされて、一人頭を抱えて苦闘することを考えたら、遥かにましであろうに違いない。
「でも、いいんですか、こんな事お願いしちゃって。陶山さんも、テストとかあるんじゃないですか?」
 心配そうに尋ねる遥に振り返り、順奈は笑って遥の頭を軽く叩いた。
「私のこと心配してるヒマあったら、自分のこと心配しなさいって。大丈夫、大丈夫、片手間にちょこっと見てあげるくらいの余裕はあるから」
 陽気に笑う順奈。不安から解放されたと思った二人も笑顔になって互いに顔を合わせ……
 ……直後、はっと気付いてムッツリ顔を背けた。

 結局、運転手の方でも頑張ってくれたらしく、トラックは10分遅れで到着したが、それでも引っ越し作業はたっぷり夕方までかかった。
「陶山さん、これはどこに置けばいいんですか?」
 新しい部屋の入り口で、遥が順奈に尋ねる。抱えている中くらいの大きさの段ボールには、AV機器のイラストが描かれている。
「うん、そうだねー。取りあえず、そっちの奥に置いてくれるかな?」
 廊下から別の荷物を抱えた順奈が顔を出して答えた。言われたとおり、遥が部屋の奥の隅に段ボールを置いて、外のトラックの方に戻っていく。
「お、やってるやってる。やっほー、遥! 頑張ってるー?」
 裏口から出た次の瞬間、そんな声がして遥はそちらを睨みつけた。緩やかな曲線を描いて下る遊歩道の先で、焼き菓子片手に二人組の女の子がこちらに向かって大きく手を振っていた。
「『頑張ってるー』じゃないわよ! いったい何しに来たのよ、真帆!」
 たっぷり恨み辛みを込めて、声をかけた少女に怒鳴りつける。彼女、真帆は、お下げ髪をふわふわと揺らして、遥の近くに駆け寄ってきた。隣にいた小柄な女の子も一緒にやってくる。
「だって、やっぱりこういう事やってるって聞いたら、冷やかしに来ないと損じゃない。ね、もっちー」
「だよねー」
 陽気な少女二人組が顔を突き合わせて笑い出す。あんまりに無責任な二人の笑い声に、遥が拳を握って肩を震わせる。
「何が冷やかしに来ないと損よ! そんなこと言うくらいなら、少しは手伝おうって思わないわけ!?」
「うん、思わないー」
「この服、お気に入りだから汚したくないー」
 身勝手ここに極まれり。
 いくら怒鳴れどこうなるのは予想済みのことではあったのだが、実際そういう態度を取られると、腹が立たないわけがない。
「あんたたちはねー……!」
 たまらず飛びかかっていこうとした遥を、後ろから佐由理が押さえる。
「ほらほら、落ち着いて。この子たちにこんな事で怒ってたら、キリないでしょ」
 遥は、まったく納得していない様子でぐしゃぐしゃと顔をゆがめて、上げていた両腕を下ろした。
「あはは、さゆりんありがとー」
「ほらほら。あんたたちも、手伝う気ないんだったら、とっとと行きなさいって。まだあたしたちはやること残ってるんだから、あんたたちと付き合ってる程ヒマじゃないの」
「はーい」
 体よく佐由理に追い払われて、真帆ともっちーがその場を後にする。それからもたっぷり、二人の賑やかな話し声がして、遥がその場で地団駄を踏む。
「ほら、遥。荷物後少しなんだから、さっさと片付けるよ」
「うーん……」
 まだ不満そうに唸る遥。その頭を軽く佐由理が叩いた。
「それに、そのお陰であの子たちにはありつけない役得もらったじゃないのさ」
「…………それもそっか。ふふーん、ざまみろー!」
 既に姿も声もなくなった二人に向かって、遥が勝ちどきを上げる。
「さ、分かったら早く片付けるよ」
「おっけー」
 パン、と軽く手を叩き合わせて、二人は荷物運びを再開する。
「遥さーん、杉田さーん。これが終わりましたら、お部屋で飲み物ご馳走しますねー」
 店の中から、メニュー片手に話す梨花の声がした。

[ おしまい。 ]


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