名もない小さな村の、粗末な宿屋の一室。青年がベッドに腰かけ、静かに本を読んでいた。
 コン、コン……
 そこへふと、部屋の戸が叩かれる軽い音がして、青年は本を閉じた。
「えへへへ……」
 扉を開けると、その向こうでは、まだ幼い感じのする一人の少女が、はにかむような笑みを見せて立っていた。
「こら、こんな時間に何をしに来たんだ? もう遅いんだから、寝なくちゃ駄目だろう」
 青年は目の前に立つ我が娘を、やんわりとした口調で叱りつけた。少女は小さな頭を軽く一度下げてから、澱みのないきれいな瞳でまっすぐに青年の目を見つめてきた。
「ごめんなさい。すぐに寝るから、その代わり『あの話』をして」
「あの話?」
 青年は眉根をひそめて問い返した。
「うん。『あの話』って言ったら分かるわよ、って、お母さんが言ってたの」
 そういうことか。青年は何かを思い立って苦笑いを浮かべた。
「仕方ないな。ほら、こっちへおいで」
「うん」
 青年が手招きをすると、少女は扉を閉めて、ベッドに向かう青年の後について走ってきた。
「話をしてあげるから、その代わり聞いたらすぐ寝るって約束するんだぞ」
「うん、約束する」
 娘が素直に返事するのを見て青年は満足そうに頷き、話を始めた。

 

「どうだった?」
 西日の差し込む客室に、外へ出ていた青年が浮かない顔だちをして戻ってきた。ベッドに腰をかけて青年が戻るのを待っていた彼女は、その姿を確認するや否や、立ち上がって彼の元に近付いていった。
「……ああ、ビアンカ。うん、やっぱりまだ様子がおかしいみたいだ。あまり詳しいことは分からないけど、どうも病気かなにかにかかったみたいだな」
「病気……」
 心配そうに手を重ねるビアンカ。青年は荷物の置いてある部屋の一角に足を運ぶと、上着代わりにしている古びたマントを取りだして、それを身にまとった。
「僕一人じゃどうにもお手上げだから、ちょっと診せに行って来ようと思う。すぐ戻ってくるから、ビアンカはここで待ってて」
 青年はビアンカの頭を軽く撫でて額に軽くキスをしてから、立てかけてあった杖を手にして部屋を後にした。
「待って、リュカ。私も行くわ」
 青年、リュカの後を追って、ビアンカも廊下に飛び出してくる。リュカは足を止めると、振り向いて小さく首を横に振ってからにっこりと微笑んだ。
「いや、僕一人で大丈夫だよ。初めての長旅で疲れているだろうし、ビアンカはゆっくりとここで休んでいた方がいいよ」
 そしてリュカは、暗く静かな廊下を小走りに駆けぬけていった。
「あっ……」
 ビアンカは慌ててそれを引き止めようとしたが、どうしてか、その次の言葉が出てこなかった。
「……バカ。こんな時にまで余計な気を遣わなくたっていいじゃないの」
 一人取り残されたビアンカは、人気のない廊下の中央に立ち、編み上げられたそのブロンドの髪の先をもどかしそうに指先でいじった。

 部屋を取っていた宿から外に出たリュカは、人目をはばかるように注意を払いつつ、馬車が停めてある町の外れへと駆けていった。
 休むことなく酷使され、すっかりくたびれきった彼らの馬車の元に辿り着くと、リュカは覆いを払ってその中に首を突き入れた。
「どうだい、具合は」
 真っ暗な馬車の中で、リュカの声に呼応していくつもの目が光った。その中の一つが動いたかと思うと、それは体を弾ませながらリュカの元にやってきた。
 奥から現れたのは一匹のスライムだった。
「あ、リュカ。ダメだよ、さっきからずーっとぐったりしたまんまだよ」
「そうか……」
 辛そうに一度目を伏せてから、リュカはそのスライムの先導に従って、馬車の奥へと入っていった。
 奥ではスライムナイトやドラゴンキッズなどといった何種類ものモンスターに囲まれて、一匹の大きな猫型のモンスターが、体を丸めて寝そべっていた。獰猛な狩人として知られ恐れられている魔物、キラーパンサー。だがしかし、その猛獣も、先のスライムの言う通りぐったりとしていて、まったく本来の覇気がない。自慢の真っ赤なたてがみも、心なしか力なくしおれているようにすら見える。
「プックル、大丈夫か? プックル?」
 リュカが名前を呼びかけて軽くプックルの巨体を揺さぶってみる。するとプックルは重そうに頭をもたげ、リュカの顔を見上げて低く小さく呻いた。
「これはひどいな……やっぱりモンスターじいさんの所に診せに行こう。プックル、動けるかい?」
 プックルはもう一度低く呻いて、ゆっくりと体を持ち上げた。
 他のモンスターたちの手も借りて、リュカは慎重にプックルの体を馬車から降ろすと、大きく一息ついて中に残ったモンスターに声をかけた。
「それじゃあ、行ってくる。馬車をよろしく頼むよ」
 元気な声で口々に返事をするモンスターたち。リュカはその声を背にして、プックルの体を支えながら街の中へと戻っていった。

 買い物を済ませ家路につく主婦たち、遊び疲れせっつかれるように帰る子供、最後にもう一売りしようとする商店の威勢のよいかけ声、仕事帰りに一杯やろうとこぞって酒場に向かう男たち。
 夕暮れ時のポートセルミは、昼間以上に人通りが多く、にぎにぎしい。
 そうした喧噪を遠くに聞きながら、プックルを連れたリュカは、城壁沿いに伝って町の反対側にある港を目指していた。ただでさえ人目をはばかるのに、この人の海と化した町中へモンスターを連れて行けば、どうなるか分かったものではない。
 しかし通りを外れて歩くということは、それだけ道なき道を選ぶということである。リュカはプックルのプックルの体を懸命に支えながら、苦労を重ねて茂みだらけの道を切り開いていった。
「ごめんな、プックル。辛いだろうに無理をさせて。本当はもっと歩きやすい道を選べるといいんだけど」
 ただ黙々と、リュカの付き添いに従って進むプックル。リュカはその様子を見ながら何度も何度も頭を下げた。
 最後の茂みを破って港に着いた頃には、もうすっかり日も落ちていた。港を渡る冷たい風が、うっすらと汗の滲んだ肌を刺す。
 リュカは羽織っていたマントを脱ぐと、それをそっとプックルの肩にかけてやった。彼は小さく一度身震いをしてから、埠頭の先にあるモンスターじいさんの家へと向かっていった。
「おじゃまします、おじいさん」
 かびくさい臭いの充満する階段を下りると、リュカはその先にある部屋の中央でテーブルに伏して寝ている老爺を揺すり起こした。老爺はしばらく呆然と目を瞬かせていたが、リュカの姿を認めると座っていた椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「な、なんじゃ、お前さん! いつからそこにおったんじゃ?」
「ついさっきからです。それよりおじいさん、ちょっと見てもらいたいんですが……」
「何じゃ、新しいモンスターか?」
「いえ、そうではなくて……おいで、プックル」
 リュカは入り口に待たせていたプックルを呼びつけた。見るからに顔色が悪く、動きも優れないプックルの様子を見て、モンスターじいさんも一つ低く呻いた。
「何じゃ、具合でも悪いのか」
「ええ、そうみたいなんです。何かしらの病気ではないかと思うんですが……」
「ふうむ……」
 モンスターじいさんは、プックルの体のあちこちを手でさすってみたり、目鼻や口の置くと言ったところを観察したりしてみた。
「うーむ……確かに普通ではない、病気か何かじゃろうとは思うが……。わしも医者ではないでな、あまり難しいことは分からんのう」
 モンスターじいさんは立ち上がると、腰を軽く何度かひねって説明した。
「そうですか……」
 落胆してうなだれるリュカ。すると、モンスターじいさんは何かを思い出して軽く一つ手を叩いた。
「おお、そう言えば……この前、クラリスのやつが万能な薬を持っておると言っておったのう」
「万能薬……ですか?」
「うむ……犬や猫にも聞いたという話も聞いておるし、試してみる価値はあるかもしれんぞ」
 犬猫とモンスターを一緒にしてもいいものかは甚だ謎ではあるが、少なくとも直す方法が分からない以上、何もしないよりは試してみた方がいいだろう。
「分かりました。クラリスさんと言うことは、劇場ですね。今から行ってみます」
「何じゃい、今から行くのか!?」
 モンスターじいさんが驚いて尋ねると、リュカははいと頷いた。
「プックルのことが心配ですし、それに宿に連れ合いを待たせていますので、早めに事を済ませた方がいいと思いますから」
「そ、そうか? しかしのう……」
「それじゃあ、プックルのこと、よろしくお願いします」
 モンスターじいさんの言葉を待たずして、リュカは外に出て行ってしまった。
「やれやれ、せっかちな奴じゃ。面倒な事にならなければいいんじゃがの……」
 モンスターじいさんはため息をついてから、大鍋に残っていたスープをよそって、それを寝そべっていたプックルに振る舞った。

 日も落ちてすっかり暗くなっても、そこだけは常にひときわ明るかった。
 ポートセルミといえば劇場、ここに来たならば一度は訪れなければ損であるとまで言われているそこは、多くの人でごった返し、不夜城の如く賑わっていた。劇場には酒場とホテルがあるが、酒場の方はともかく、ホテルは高級でそうおいそれと泊まれるものではない。
「いらっしゃいませ」
 そのホテルのフロント側から劇場に入ったリュカは、フロントに詰め寄って係の男に尋ねた。
「あの、クラリスさんを呼び出すことはできますでしょうか?」
「クラリスですか、少々お待ちを……」
 男は帳面を見たり他の男を行き来させたりして調べ始めた。そしてしばらくすると、その男は深々と丁寧に頭を下げた。
「申し訳ございません。クラリスは今日は予約がいっぱいでして、新規に予約を入れることはできません」
 男の言葉に、リュカは眉をひそめて首を傾げた。
「え? いえ、あの、そういうことではなくて……」
 リュカが説明をしようとすると、先程走らせた男が戻ってきて、フロントの男と何やら小声で話し始めた。
「あの……」
「お客様、運がよろしいですね。ちょうどこのすぐ後にキャンセルが入ったそうなので、すぐにお取り次ぎできますよ」
「は、はあ……」
「それではご案内しますので、こちらへどうぞ」
 応対していた男とは別の若い男が出てくると、リュカの前に立って彼を導き始めた。リュカはただ流に任せるまま、男についてホテルの階段を上り始めた。
「いやー、お客さん、本当に運がいいよー。クラリスちゃんといったらダントツの一番人気で、一週間待ち十日待ちなんてザラですからねえ。それもこんな急なキャンセルが入るなんて、滅多にないことですよー」
 男は口がよく回るタイプらしく、案内している間中ずっと勝手に一人で喋っていた。リュカはただ曖昧に頷いて男の話を聞いているより他無かった。
「さあ、着きました。この部屋です」
 やがて二階の一室に辿り着くと、男は扉を開けてリュカを招き入れた。
「あの、ここはいったいどういう……」
「それでは、ごゆっくり」
 リュカの質問など聞く耳持たず、男はさっさと扉を閉めて行ってしまった。唖然と閉められた扉を見つめるリュカ。
「何をボーっと突っ立っているの? そんな所にいないで、こっちに来たらどう?」
 後ろから声がしてリュカは振り返った。部屋の奥に、豪華な椅子に座ってこっちを見ている女性、クラリスがいた。初めてこの街に訪れた際、劇場の片隅から遠目に彼女を見て綺麗な女性だと目を奪われていたが、その美しさはこうして間近に見ても何ら変わる様子はない。あの時は踊り子の衣装を着ていたが今は豪奢なドレス姿で、艶やかで魅惑的な色香が漂っている。
 リュカはぎこちない足取りでクラリスに言われた通りに部屋の奥に入ると、彼女の向かいにある椅子に腰を下ろした。
「ふふ、緊張しちゃって、カワイイ。お兄さん、こういう所は初めてかしら?」
 クラリスが足を組み替え、グラスを傾ける。少しでも長くこの場にいるとおかしくなってしまいそうな気になって、リュカは早々に話を切り出すことにした。
「あの、クラリスさん。実は折り入ってあなたにお話があって来たんです」
「話……? 何だあ、無理をおして急に予約なんか入れるから期待してたのに……そういうことだったのね」
 クラリスが、興味を無くして冷めたような表情を見せた。ますます反応に困ってリュカがうろたえる。
「……で、話って?」
 クラリスがグラスを置いてリュカに続きを促した。
 リュカはクラリスにモンスターじいさんから聞いた薬の話をして、それを分けてもらえないかと話をした。もちろん、薬を使う相手のことは上手くごまかしてある。
「あの薬ねえ。ホントは私のペット用に、とか言ってファンのコがくれたヤツだけど……もらったときには死なせちゃった後だから、もう私が持っていても仕方ないし……まあいいわよ」
「本当ですか!」
「ええ。その代わり……」
 クラリスは口元を少し上げて笑うと、席を立ってリュカに身を寄せてきた。
「どの道、キャンセル入っちゃって私ヒマなのよね。あなた結構イイ男だし、空いちゃった時間、私に付き合ってくれないかしら」
「え!? あ、あ、あ、あの……」
 リュカの首元に抱きついてくるクラリス。鼻をくすぐるかぐわしい香水の香りと部屋を満たす甘い香の匂いが相まって、リュカの頭の中はまっ白になっていった。

 結局、クラリスにたっぷり付き合わされたものの、無事薬を手に入れてきたリュカは、それをプックルの待つモンスターじいさんの家に急いで持っていった。
「おお、お前さんか、早かったのう。ちょうどよかった、今から晩飯にしようかと思っておったのじゃが、お前さんも……」
「おじいさん、これ、よろしくお願いします!」
「……う、うむ。分かったぞい。お、おい、お前さん……!」
 リュカはさっさとモンスターじいさんに薬を預けると、足早にその場を後にして宿に向かっていった。すっかりビアンカを宿で待たせっきりにしている。夕飯もまだだし、もしかしたらしびれを切らしているかも知れない。リュカは脇目も振らず全力で走っていった。
「ごめん、ビアンカ! すっかり待たせちゃって」
 部屋に駆け込んできたリュカの様子を見て、ビアンカはクスクスと笑った。
「何よ、リュカ。そんな息を切らしてまで慌てて帰ってこなくたっていいのに」 「いや、待たせたままにしていたから悪いかな、と思って」
「別にそんなに気を遣わなくてもいいのよ、私は平気だから。それよりお腹空いちゃった。食事に行きましょ」
 ビアンカが座っていたベッドから腰を上げて、リュカのいる入り口に向かってきた。
 ──そしてふと、半分くらいまで近付いてきたところで、ぴたりと彼女の足が止まった。
「……どうしたんだい、ビアンカ?」
「…………あなた、どこに行っていたの?」
 ビアンカの目尻が異様につり上がっている。彼女の気迫に押されて、リュカは半歩後ろに身を退いた。
「え……ど、どこって……」
 ビアンカが一歩一歩鼻をひくつかせながら近付いてくる。そこでハッと気が付いて、リュカは自分の腕に鼻を押し当ててその臭いを嗅いだ。
 ──香水の匂い。
「え、えっと、これは……」
 言い訳をしようとするリュカに飛びついていって、ビアンカは彼の首を締め上げだした。
「答えなさいよ! プックルの様子を診せに行くとか言っておきながら、どこに行って何をしてきたのよ!?」
「ビ、ビアンカ……お願いだから、僕の話を……」
「遅くなったのもそのせいなの? どうなの!? ハッキリ言いなさい!」
 怒りに身を任せて、ビアンカはリュカを責め立て続けた。
 ──結局、その夜とその翌日はろくに口も聞いてもらえず、状況を説明して誤解を解いてもらえるまでには、ゆうに一週間はかかってしまった。

 

「……お父さん、かっこ悪い」
 娘の容赦のない一言に、青年はがっくりと肩を落とした。
「そう言わないでおくれ。これでもお父さん一生懸命……」
「うん、分かってる。ところで、プックルの病気の方はどうだったの?」
「……ああ。病気はそんなに深刻なものでもなかったみたいでね、薬を飲ませておじいさんの所で何日か療養させたら、すっかり元気になったよ」
「ふうん……。それじゃあお父さん、完全に疲れ損だったんだ」
「はは……まあ、そうなるかな」
 青年は苦笑いを浮かべていたが、ふっとその表情を引き締めると、足元で寝ているキラーパンサーの背筋を撫でてやった。
「それでも、ああして走り回ったことが少しでもプックルの病気を治す役に立てたのなら、それもいいんじゃないかな。少なくともお父さんはそう思うよ」
 そう話す青年の表情が、とても優しかった。娘もいつしかその表情に引き込まれていた。
「さあ、約束通りお話ししたんだから、もう部屋に戻って寝なさい。明日も早いんだから、しっかり寝ないと駄目だぞ」
「はぁい……」
 娘は渋々立ち上がると、名残惜しそうにゆっくりと部屋の入り口に向かっていった。そして扉に手をかけたところでくるりと振り返った。
「お父さん」
「何だい?」
「…………おやすみなさい」
「……ああ、おやすみ」
 静かに扉が閉められる音がする。
 青年はもう一度キラーパンサーの背を撫でると、部屋の灯りを消して自分も眠りに就いた。

[END]


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