英雄たちのぱとす

 どきどきどきどき──…………

 ひとときの甘い時間。その長さが河原の砂つぶにも思われそうなくらい長い間、報われぬ思いを抱き続けた一組の男女。
 差し延べられる男の手。寄りすがる女の、白く細い体。
 そっと顔を寄せ合い、今、二人は悲劇の主人公という望まぬ運命を捨て去ろうとしていた。

「……何やってるの、トリス?」
「わっ! きゃ……っ!!」
 すんでのところで悲鳴が上がりそうになるのを、辛うじてこらえる。トリスは、両腕を伸ばして背後に立っている女性の服をつかむと、強引に引き倒してその女性を自分の隣にひざまずかせた。
「いっ……たぁーい。いきなり何するのよ! ヒザ擦りむいちゃったじゃな……!」
「し────っ!! 静かにして!!」
 口元に指を当て、相手の女性の口をもう一方の手で押さえて沈黙を促すと、トリスは再び顔を前に向けて、抱き合う男女の様子を注意深く観察し始めた。
 幸せなこの時間を飽くまでたっぷりと堪能したいのだろうか、男女は抱き合ったまま見つめ合うだけで、動く様子がない。
 トリスの隣にいた女性も、動きのない二人の様子を仕方なしに見ていたのだが、ただただじれったさが募るばかりで、隣で頻りに黄色い声を上げるトリスの反応がどうにも理解できなかった。いい加減、中腰の体勢をしているのにも疲れてきて、彼女は草の上に足を投げ出して、深いため息と共にトリスに尋ねた。
「ねえ、トリス。さっきも聞いたんだけど……何やってんの?」
「何言ってるのよ、フィリスちゃん。見て分からない?」
 分かる。分かっているからこそ、本当にそんなことをしているのか、確認がしたかった。
 そして、つい、本音が一言。
「……趣味悪」
「なぁんですってぇ!?」
「うわっ!?」
「きゃあっ!!」
 トリスの大声、激しくかき分けられる茂みの音。甘い甘いその場の雰囲気が、一瞬にして粉々に砕け散ってしまった。
 男女の呆然とする視線が、フィリスの冷たい視線が、立ちつくすトリス一人に、自ずと集中する。
「あ、あは、あははははは…………し、失礼しました──っ!!」
 トリスはさっときびすを返し、脱兎のごとくその場から駆け出していった。

「あー、もうっ。せっかくすごくいいムードだったのに、どうして邪魔するかなー、フィリスちゃんは!」
 サマンオサの街並みを、ずけずけと大股開きで歩くトリス。そこからたっぷり数歩遅れる形で、フィリスも着いてきている。
「別にトリスが作ったムードじゃあないじゃん。それにぶち壊したのはあなたじゃないの」
 痛いところを突かれて、トリスが一瞬押し黙る。
「だっ、だって! フィリスちゃんが『趣味悪い』なんて言うからだよー!」
 立ち止まって振り返り、両腕を振り回して抗議するトリス。フィリスはそのトリスにそっと近付くと、声の調子を落として反論した。
「だって、実際、趣味悪いじゃない。人の恋愛図を覗き見するだなんて」
「うっ、そ、それはぁ〜……だってだって、あの二人、もう十年も引き裂かれっぱなしだったっていうんだよー。すごく気になる展開じゃない。それに、あたしたちは、その元凶を退治したんだよ、英雄だよ! だから〜……」
「だからって、出歯亀していいっていうもんでもないと思うんだけど」
「うっ」
 再び黙り込むトリス。何か言い返そうにも、すべて自分に非があるだけに、何一つ言葉が出てこない。
「フィリスちゃんの意地悪……」
「そういう言い方しないでよ……あれ?」
 通りの向こう側にある建物から出てきた一人の女性を見て、フィリスが言葉を切ってそちらに顔を向けた。
「どうしたの、フィリスちゃん?」
「あれ、マリアじゃない」
 フィリスが指さす先に目を向ける。通り沿いにある小さな酒場の入り口。その傍らに、長身の女性が一人立っている。何とも苦々しい顔をして頭を掻き、ため息をつく仕草がよく似合っている女性……間違いなく、彼女たちの仲間のマリアである。
「あ、ほんとだ。まーた、なんか難しい顔しちゃって……面倒事にでも巻き込まれちゃったんかな?」
「うーん。そういえば、ミリーと一緒に出かけるとか言ってたんだけど、そのミリーはどうしちゃったのかな」
「わかった!」
 思いっきり大きく腕を振って、トリスが手を叩く。突然耳元でけたたましい音を鳴らされて、フィリスが目を白黒させる。
「な、何よ、いきなり。分かったって、いったい何が……?」
「きっと、あれよ! 感情のもつれってやつ!」
「……はあ?」
 初め、何を言い出したのやら訳も分からずフィリスは眉根を顰めたが、やがて息巻くトリスの異様に輝いた目を見て、何を思いついたのか合点がいってため息をついた。
「酒場で待っていた運命の出会い! わき上がる甘く熱い感情! でも、隣にいた無二の親友も時同じくして同じ感情を抱いていたのだった! 友情と愛情の狭間で揺れる乙女心! 心優しいマリアちゃんは、敢えて涙を呑んで親友にその道を譲るのだった! ……って感じ?」
 感情も豊かに、ころころとポーズを変えて一人まくし立てるトリス。フィリスは、その一部始終をたっぷり冷ややかに見送ってから、
「…………あのミリーが?」
 と、痛烈な一言。一気に冷や水を浴びせられ、トリスが肩を落とす。仲間内では、ミリーの朴念仁かつ変わり者っぷりはよく知られている。トリスが先ほどまくし立てたような熱烈な恋愛はおろか、人並みの自然な恋愛ができるのかすら分かったものではない。
「とりあえず、マリアちゃんに聞いてみれば分かるよね。うん、そうしよ……」
 空気が抜けてしぼんだ風船のように、トリスはとぼとぼと酒場の方へと向かっていった。

 参ったな。
 マリアは口元を歪めて呻くと、空いている手を袂の鞄に突っ込んで中身をまさぐった。酒場の前に突っ立って、そんなことをしたところで、何が変わるというわけでもないことは分かってはいるのだが。
 それより、気になるのは中のことだ。ついミリーを一人にしてきてしまったが、果たしてあのままの状態にしておいて大丈夫だっただろうか。たかがならず者一人二人に絡まれても、あのミリーならば追い払うことくらい容易かろうが、今の彼女のあの状態では……
「おーい、マリアちゃーん!」
 そうやって、店の戸口にちらちらと横目を送っていると、どこからか耳慣れた少女の声がした。
「……ん、なんだ、トリスか。ああ、フィリスも」
 マリアが近付いてきた二人に気付くと、それから少し間を置いて、今日何度目かのため息をついた。
「あっ、マリアちゃんひっどーい! なんで人の顔見てため息つくかなあ!」
 腰に手を当て、目一杯足を開いて威勢を張って、トリスが文句を垂らす。
「あ、悪い悪い。別にアンタの顔見てため息ついたわけじゃないから」
 右手で額を覆って、軽くマリアは頭を左右に振った。こうしている間にも、ちょっと気を緩めるとすぐにため息が出てしまいそうだ。
「大丈夫、マリア? なんだかひどく元気がないように見えるけど」
「ああ、そうそう! ねえ、マリアちゃん。ミリーちゃんと何かあったの?」
 ぽかり。
「あいたっ!」
 すかさずフィリスの手が伸びて、トリスの頭のてっぺんを捉える。
「いったーい! いきなり何するのよ!」
 小柄な彼女の身の丈程もありそうなマントを大きく翻して、トリスが背後のフィリスに振り返る。
「あんたねえ。年中ロマンスがどうの男女の機微がどうのだの言ってるくせに、そういうのには配慮ないわけ? ほら、ちょっとマリアの方見てやんなさいよ」
 フィリスにたしなめられて、トリスがもう一度反転してマリアの様子を見やる。
「えっ? べ、別に、あたしは何ともないから」
 それに気付いたマリアが、小さく手を振って答える。相変わらず覇気のない顔をしているのだけは変わりないようだが。
「……まあ、こんな場所に突っ立って話してるのもなんだし、どこか別の所で、お茶とかでもしながら落ち着いて話しない」
「うん、そうしよそうしよ」
「あ、それなら……悪い、ちょっとお金貸してくんない?」
「え、なんで?」
 フィリスに尋ね返されると、マリアは気まずそうに目を逸らして頬を掻いた。
「えっと、それがさ……気まずくなって、メシもそこそこに出てきちゃったのはいいんだけど、財布、カウンターに置きっぱなしにしてきちゃってさあ。今更戻るわけにもいかないし、でも腹減ってるし、どうしようかなあって……」
 ぐーっと小さく鳴った腹を押さえて、顔を赤くしたマリアが空笑いをした。

「ふーっ。やっと人心地着いたよ」
 小さな丸テーブルの上にたっぷりと五人分の食器を並べて、マリアが椅子にふんぞり返る。
「よくもまあ、人のお金でこれだけ食えたものね」
 放り投げられたフォークで、空になった食器の一つを弄んで、フィリスが小さくこぼす。傍らで、トリスが通り掛かった給仕を呼び止めて片付けてもらうように催促する。
「ねえねえ」
 給仕がテーブルの上を片付けている横で、マリアがフィリスの耳元に顔を近づけて囁きかけた。
「何?」
「デザートも、頼んでいい?」
「やめてくんない」
 これ以上注文されては、色々な意味でたまらない。あれだけ萎れていた彼女を気遣ったっていうのに、そう思うと非常に馬鹿らしく思えてくる。
「ていうか何、気落ちしてたから元気なかったんじゃないの?」
「んー、どっちかって言うと、腹減ってたからかな。はは」
「はは、じゃなーい!」
「ねえねえ。元気出たんならさあ、さっさとさっきの話しない?」
「そうね……ねえ、マリア。さっきの店で、ミリーと何かあったの?」
 フィリスに尋ねられると、マリアが頭を抑えて先程までの笑顔とは一転して気難しい面持ちになった。
「なあ、アンタたち。サイモンって名前に聞き覚えはあるか」
「マリアちゃんの剣のセンセイ」
「……本当に手解きの一年間だけ、な。元々は名代の剣客で、このサマンオサ一帯じゃあ勇者様として慕われてたんだと」
「で、そのサイモンって人がどうかしたの?」
「それがな、十年前だかにサイモンがバラモス討伐をするためにオルテガとふたり、旅に出たっていう話を聞いてさ」
 二人があっと同時に声を上げる。
「で、それを聞いたっきり、ミリーが黙り込んじゃって」
「そっか、塞ぎ込みたくなる気持ちも分かるわね。それじゃあ、ミリーはお父さんのことを思い出して……」
「うーん。まあ、そこまで聞いたワケじゃないから、どうして黙り込んだのかは分からないけど。かといって、どうしたって聞くのも気が引けるし」
 したたかに注文していたらしい、マリアが運ばれてきた飲み物のグラスを受け取って、指先でその縁をなぞり始めた。
「じゃあさ、あたしが聞いてきてあげよっか」
 トリスが立ち上がって自分を指さす。
「大丈夫、トリス?」
 いささか不安そうにフィリスが尋ねる。不安げな面持ちなのは隣にいるマリアも同じだった。時折、確信犯的にとんでもないことをしでかすトリスだけに、あんまり色々と任せるのは心配である。
「大丈夫、大丈夫。ちゃーんと聞き出してあげるから」
「言っておくけど、さりげなくだからね、さりげなく!」
「分かってるって」

 酒場に戻ってきた三人は、音を立てないように少しだけ戸口を開けて、中の様子を窺った。ミリーは先程マリアが店を出た時の状態のまま、カウンターテーブルの片隅でひとり、じっと黙り込んで座っていた。そして、時折、傍らの剣の柄を弄んではため息をつく。
「うわ、あれは相当重傷ね」
 最初にその様子を目にしたフィリスが呻き声を上げた。
「ではたいちょー! 僭越ながら、私トリスが偵察に行って参ります!」
 びしっと手を出して敬礼をして、トリスは勇ましい足取りで酒場の中に入っていった。
「……なあ。最近、トリスのヤツ、どんな本読んでんだ?」
「知らない。大方、騎士様の恋物語とかいうヤツじゃない?」
「なるほど」
 多分に呆れた様子で、二人は目立つ動きのトリスを盾に、こっそりと酒場の別の一角に向かっていった。不安そうに見送る二人の視線を背に、トリスはミリーの近くに歩いていくと、隣の椅子を引いてそこに腰かけた。
「ミリーちゃん、何やってるの? 元気ないよ」
 どうやら、入りは無難なようだ。少し離れたところで見ていた二人がほっと胸をなで下ろす。
「……ああ、トリスか。……そんなに元気ないように見えるか?」
「うん、すっごく。ねえねえ、サイモンって人の話を聞いたんだって?」
 がたがたっ!
 慌ててマリアとフィリスが立ち上がる。あれだけ「さりげなく」と言っておいたのに……
「……マリアから聞いたのか」
 このままじゃあ自分が悪者になってしまうじゃないか、そう思ってマリアが頭を抑えてテーブルに突っ伏す。
「うん。で、塞ぎ込んじゃったらしいから、何を考えてるのかなーって」
「そうか。……余計な心配をかけていたみたいだな。すまない」
 怒るのかと思いきや、逆に頭を下げてミリーが謝ってきた。その展開に、離れていた二人も、半ば茫然としながらも、少し安心をしていた。
「別に謝る事じゃないってば。ねえねえ、それで、何考えてたの? やっぱり、お家が恋しいよーとか、お父さんの顔が見たいよー、とか?」
 ミリーは何度か目を瞬かせる。しばらくそうしてから、ミリーはゆっくりと語り始めた。
「マリアから聞いていたのなら、知っているだろう、サイモンが父さん……オルテガと二人で旅をしていた、と。
 それで、男二人で旅をするというのは、いったいどういうものだろうか、と考えていて……」
「……はい?」
「トリスがよく言っていただろう。二人だけで旅をすると、友情を越えた感情が芽生える事がよくあると。
 やはり、父さんとサイモンの二人の間にもそうした感情が芽生えることがあったのだろうか、と。
 干渉するもののない、二人だけの世界。寝食を共にし、時には死線を乗り越え次第に熱い絆で結ばれる……」
 トリスから聞いたという言葉を、そのままつらつらと並べ立てるミリー。
 言わずもがな、トリスがミリーに言って聞かせたのは、あくまでも「男女の」恋仲の話(それも、物語の中での)である。それを、オルテガとサイモンの二人のことにそのまま当てはめ、饒舌に語るミリー。
 それだけで、想像力豊かなトリスの頭の中では、たくましい戦士二人の絡み合う絵図が次から次に浮かび上がり……
「いーーーーやーーーーーーーーっ!!」
 がたっ! だだだだだっ! ばたんっ!!
 遂には耳元を塞ぎ、悲鳴を上げて酒場から飛び出していってしまった。
「あっ、トリス!」
 慌ててそれを引き留めようとマリアが立ち上がったが、既にその時にはトリスの姿は酒場から消えてしまっていた。
「…………マリア、それにフィリス。いたのか……?」
 突然飛び出していったトリス、そして知らずのうちに同じ店内にいた二人、その様子にただ唖然となるミリー。マリアが最初に抜け出した時よりもさらに気まずい空気が流れる。
「あ、うん、まあ、その、なんだ……とにかく、落ち込んでいないようで何よりだよ、あは、はははは……」
 はたで話の内容を聞いていただけに、マリアの笑いもいささかぎこちない。隣にいるフィリスの表情も、随分げっそりとして、ひどく疲れた様子であった。

[END]


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