第3章

「船が出ない?」
 バティはいぶかしげに目の前の男に尋ね返した。かなり体格のよい、日焼けをした褐色の肌のこの男は、明らかに子供ばかりの集団である自分達の乗船をただ単に拒否したいだけなのではないのだろうか、そう思ったからである。
「何でだよ。これだけ海も穏やかだし、空だって雲一つないじゃないか。しける様子は見当たらないぞ」
 バティは窓の外に広がる静かな海を見てがなり立てた。
 男は、心底参ったような面構えで机に叩きつけられたバティの手の平に視線を落としてため息をついた。
「いや、しけとかは関係ない。ただ、どうも最近海の魔物の様子がおかしいらしくてな、向こう一月でもう十数隻が襲われてるんだよ。しかも、そのうち五隻は沈められちまってる。おかげで今は城から直々に出航を慎めとおふれが出ちまったもんだからな。そういうわけだから船は出せないんだよ、申し訳ないがね」
「……そうかよ」
 バティはもう一度船のいない波止場に目を向けると、不機嫌そうにその場を後にした。

 橋が欠け、随分古びた感じの桟橋に腰を下ろし、靴を脱いで足をその下にたらす。時折波が起こるたびに、ひたひたと冷たい海水が指先に付いて心地よい刺激を与えてくれる。そんな感触の中にまどろみを覚えながら、アネットは目の前の景色をじっと見つめた。
 広々とした青い風景を、なだらかな曲線を描いて二つに切り分ける水平線。まばらに白い雲の見える空とわずかに寄せては返す水面はどちらも穏やかで、眺めているとまるで自分が時間の流れから忘れ去られてしまいそうに思えた。
 この前まで、立て続けに色々な事があり過ぎた。気を休めていられるような、そんな暇も無かった。その中には衝撃的なことも少なくはない。フレミーノで起こった事件、オラクルベリーで出会った老人とイナッツの話、サンタローズの洞窟の奥で姿を見せた謎の女性。それらのすべてが、自分と兄に何かしらの深い関わりを持っている。そして、それを知る鍵がエルヘブンにある、女性はそう言っていた。
(エルヘブンに行けば……私のことも少しは分かるかしら……?)
 自分が何者なのか、どういう存在なのか、それには深い興味がある。だが、それと同時に、彼女はそれを知ることに深い恐怖を覚えていた。知ってしまうと、自分が自分でなくなってしまうようで……
「あ、いたいた。おーい、アネット! そんな所で何やってるんだ?」
 声をかけられたアネットは、立ち上がって背後を振り返った。
 桟橋の手前でフレイがこちらに向かって手を振っている。彼女と同じ金色の髪が、絶え間なく吹き続けている緩やかな潮風に揺れている。フレイはやかましい音を立てながら、桟橋の上をこちらに向かって駆けてきた。
 彼女はすぐ側まで近付いて来た兄の表情を見上げた。無邪気な幼い子供のような、底抜けの明るさと活発さを含んだ顔つき。彼も彼女と同じ境遇に遭わされて、決して小さくはない衝撃を受けているはずである。それにも関わらず、彼は妹とはまったく違った表情を見せている。
 アネットはそんな彼の笑顔を見ていられなくなり、思わずそこから視線をそらした。
「……何だ? どうした、アネット?」
 妹の不可解な行動に、フレイは眉根をひそめて顔を近付けてきた。再び目線に入ってくる兄の顔から逃げようと、今度は体ごと動かす。するとフレイはそちらに回り込んで再び彼女の顔を覗き込んできた。さらにそれから逃げ出そうと、アネットが身体を反転させにかかる。
「あっ……」
 ところが、彼女はフレイに肩を掴まれると、彼に強引に向き直させられた。さらに彼は、それでもなお逃げようとするアネットの顔を捕まえて、それも無理矢理に自分の方に向けた。
「おい、アネット。何かあったのか? なあ?」
「べ、別に……」
 そこまでしてもまだ彼女の視線は彼から逃げていた。何とか目を合わせまいと懸命に視線だけを横にそらしている。
 フレイはそんな彼女をしばらくじっと見詰めると……
「あいたっ!」
 ごん、と、軽く一つおでこをぶつけてきた。
「な、何するの、いきなり!?」
 ぶつけられたおでこに手を当てて、兄のことをにらみつける。そうすることで自然に彼と目線が合ってしまい、再び慌てて彼女は視線をそらした。
「さっきっから何回も呼んでんのに来ないからだよ。ほら、いつまでもこんなとこでぼさっとしてないで、とっとと行くぞ」
「え……?」
 フレイに言われてアネットは慌てて周囲を見渡した。しかし、港は先程までと同じで、至って静かなものである。
「でも、船が来てないみたいだけど?」
「ここからは出せないんだと。だから他の手を当たれってさ」
 横からバティの声がして、アネットはそちらを振り返った。バティはなんとも不景気な面持ちで腕組みをしている。どうも話し合いが思うように行かなかったことに腹を立てているらしい。
「でも、他の手って言っても……」
「そうだな、まずはそいつを話し合わないとな。だから、とりあえずアルカパに行くことにするぞ」
「アルカパに?」
「ああ、こっから一番近いし、それに、用意してきた旅道具も一通り尽きかけてきてることだから、そいつの補給もかねてってことでな」
「そう」
「ついでに言うと、この時期アルカパじゃあバザーをやってるらしいぞ」
「ふうん」
「そういう訳だからさっさとこんな寂しい所からおさらばするぞ」
 そう言ってバティは一人さっさと駆け出していった。残された二人は、お互いをじっと見詰め合った。それから何もしないまま、ただ静かに時間が過ぎていく。
「おーい! さっさと行くって言ってんだろ! 早くしてくれよ!」
 そこへバティの声がかけられて、二人ははっとそちらに顔を向けた。
「あ、うん」
「今行く!」
 そして二人は、足並みを揃えて桟橋の上を歩いていった。

 

 アルカパではただならぬ雰囲気が漂っていた。広場で、店先で、通りのあちらこちらで、物々しい顔つきで話し合う人々。賑やかであるには違いないが、彼らが予想していたバザーの賑わいとは明らかに趣を異にしていた。
「……なんだよ、バザーやってるんじゃなかったのか?」
 町についてその様子を見るなり、フレイが隣にいるバティに尋ねた。
「知らねーよ。俺もビスタで初めて聞いた話なんだからよ」
「大方、おいしい話でもぶら下げて適当にあしらおうとか思われたんじゃないのか?」
「なんだと!」
 通りを歩きながら二人が揉め合いを始める。
 そうして広場の入り口にかかる橋まで辿り着いたその時、フレイは目の前から迫ってくる影があることに気付いた。
「おい、バティ!」
「何だよ!」
「前、前っ!」
「前……? うわっ!」
 バティがフレイが指を差して叫ぶ前方を向く前に、彼はそちらから来る何ものかに突き飛ばされていた。突然の強い衝撃に、バティが大きくバランスを崩す。彼らが今いるのは二人が並んで歩くのがやっとの幅しかない橋の上である。倒れようものならば、とんでもないことになってしまう。
「こらー、待ちんさいって言っとるやんね!」
 そこへ大きな声を張り上げながらまた一つ人影が迫ってきた。
「うわあっ!」
 その人影もバティのことを突き飛ばして橋の上を駆け抜けていった。さらにバランスを崩されたバティが、たまらず背中から後ろへと倒れ込んでいく。バティの体が、広場の周りを取り囲む池の中へと飛び込んでいった。
 激しい水音がして辺りに盛大な水しぶきが散る。
「うひいっ、冷てえっ!」
 まだ水浴びをするには早すぎる時期だ。池の中から顔だけを出したバティが悲鳴を上げる。
「うん?」
 今し方バティを突き飛ばした人影が足を止めて振り返る。赤いポニーテールとぱっちりとした大きな目が印象的な少女であった。
「あーっ、わっるいねー。けど、そこでぼーっと突っ立ってるあんたも悪いんよ。ああ、いけん。こんなとこでくっちゃべってるヒマあったら、早くあの子追っかけんと」
 少女はぞんざいに彼に謝ると、再び走っていこうとした。
「こっ、こら待て!」
 震えながら池からはい出したバティが少女を引き止める。
「なんよ? あたしに何か用?」
「あのなあ! こんなことした詫びも何もしないでさっさとどっかに行くつもりか!?」
「だからさっき謝ったやんけ。ちゃんと聞いとった?」
 腕組みをしている少女は、先程から一秒も惜しいとばかりに右の足を小刻みに鳴らしている。
「だからだな! 行くならちゃんと謝って、それからこいつを何とかしてからにしろ、って言ってんだよ!」
 いきり立ったバティが少女につかみかかる。少女は顔を引きつらせ目を大きく見開いた。
「何すんねやあっ!」
 少女はバティの襟元をつかみ返すと、彼の体を軽々と投げ飛ばした。ふわりと宙に浮いた彼の体が、鈍い音と共に地面に叩きつけられる。横でそれを見ていたフレイは感嘆の息を漏らした。
「そんな手でつかみかかってきたら冷たいやんけ。第一、暴力は振るたらいけんよ。ほんじゃあ、あたしは行くけんね」
 少女は襟元を正して、倒れるバティの元から足早に去っていった。フレイは、無様にはいつくばるバティに歩み寄っていってその場に屈み込んだ。
「これ以上ないってくらい見事にやられたな」
「……楽しんで見てるヒマあったらフォローくらい入れろよ」
「ヤだよ、俺だって巻き添え食いたくないから。それに、いきなりつかみかかるお前の方が悪いんだろ」
「その前にあいつが俺を突き飛ばしたのはどうなんだよ、ええ!?」
「細かいこと気にすんなよ」
「細かくないだろうがよ……」
 まだ這いつくばったままのバティは、さらにぐったりと寝そべってうめき声を上げた。

「もう、お兄ちゃんもバティ君も私を置いてさっさと先に行っちゃうなんて」
 アルカパの町の入り口でむくれた顔をしたアネットが立っている。町が見えたところで二人が揃って走っていってしまったので、彼女一人が置いてきぼりをくっていたのである。
 それで、勝手に歩き回ってさらにはぐれたらいけないと彼女はここで二人を待つことにしたのだが……待てど暮らせど二人は戻ってくる様子がない。いい加減待つことにも飽きてきた彼女は、少しだけと思い町の中へと入っていくことにした。
 その時、横から彼女に向かって近付いてくる影が一つ。
「うわっ!」
「きゃっ!」
 まったくそれに気付かなかった彼女は突っ込んでくる人影とまともに衝突し、二人は一緒になってその場に倒れ込んでしまった。
「あいたた……なーに、もう」
 倒れた拍子に打ち付けた頭を抑えて起き上がったアネットは、自分を押し倒してきたそれを見下ろした。
 自分にしがみつくようにして一人の少年が倒れている。自分の胸元にうずくまっている頭を覆う黒い髪は、短いながらもさらさらとしていてとても手触りが良さそうな感じがする。細く柔らかそうな手足はほんのり桃色がかっていて、少年はまだまだ幼い子供、自分より五つ六つ小さいのではなかろうかと思われる。
「あ、だ、大丈夫?」
 その顔が微かに動いたことで我に返ったアネットは、少年の体を抱えて半身を起こした。少年は息が少し荒い以外は特に変わった様子はなかった。怪我も見当たらない。
「う、うーん……」
 少年の体が揺り動き、目がゆっくりと開いた。髪の色と同じきれいな黒い瞳だ。
「あ、よかった。ねえ、大丈夫? 何ともない?」
 目を覚ました少年にアネットが声をかけると、少年はすぐさま彼女を突き押して走って行こうとした。
 彼が走って行こうとしているのは……
「待って!」
 気が付いたらアネットは少年の右足をつかんでいた。
「うわあっ!」
 足をつかまれてまともに走れるわけもなく、村の外に向かって走って行こうとしていた少年はその場に倒れ込んだ。
「いたた……何するんだよ! 離してくれよ!」
 まともに顔から倒れ込む寸前で受け身を取ったものの、代わりに左の腰を思い切り硬い路面に打ち付けた。少年は激しく痛む腰を押さえながら、だだをこねるように全身を動かす。
「で、でも、外に行こうとしているんでしょう? 駄目よ、外は危険だから……」
 振り解こうとする少年の足の力は意外にも強かったが、アネットも意地になって手を離そうとしない。
「オズくーん、どこ行ったんー!」
 その時、別の少女の声がして少年の身体がひとつはねた。
「ヴァレアおねえちゃんだ……は、離してよー! 早くー!」
 さらに少年の力が強くなる。どうにかして振り解かれまいと、アネットは両手を使ってまでその足を押さえ込みだした。
 そこへ赤い髪を揺らして少女が一人駆け寄ってきた。少女は倒れている少年に気付くと、彼の両脇に手を通してその体を持ち上げ、拳を握って彼のこめかみを押さえつけ始めた。
「オズくぅーん、勝手に飛び出してって一体何しようとしとったぁーんよ? まさかお外に出て行こう思たんけえ〜?」
「い、痛い、痛いぃっ! やめてよおねえちゃん、離してよ〜!」
 ぐりぐりと強い力でこめかみをにじられ、少年が苦悶にうめく。
「ふぅ……まぁええ。こまい話はウチでゆ〜っくり聞いたげるけん、覚悟しときい。さ、帰るよ」
 少女は少年の体を片腕に持ち替えると、まだ倒れているアネットに手を差し出した。
「え?」
「ほら、早よし」
 少女に急かされ、アネットは出された手を取った。彼女の身体が一気に引き上げられる。
「ありがとうございます」
「何言ってんね、礼を言うのはあたしの方。この子引き止めてくれたやんね、ほんとありがと」
「いえ、そんな大したことは……」
「あっ、せや! 何かお礼せんといけんな。なあ、あんた一緒にウチに来んか?」
 アネットの言葉を無視して少女が次から次へとまくし立てる。
「え、でも……」
 少女の提案にアネットはひどく逡巡した。折角はぐれないようにと退屈なのをこらえてこの場で待っていたのに、今彼女に着いてこの場を離れてしまうわけにはいかない。だが、断れば彼女の好意を無駄にしてしまうのではとも思う。
「まあ、そう気にせんと行こ。ほら、ウチそこの宿屋やけん」
 少女が指差した通りのはるか先に他より大きな建物の姿が見える。
「はあ、それじゃあ、お言葉に甘えて……」
 宿屋ならば、そこで待っているうちに二人も来るかもしれない。そう思ったアネットは、彼女についていくことに決めた。
「ほかほか! そしたら行こっか」
 少女は満足そうに頷いて、家路に続く道を歩いていった。
 彼女が背中を向けるまで自分に投げかけられていた少年のきつい視線を、アネットはずっと気にかけていた。

 

「……何やってるの、バティ君? お兄ちゃんも」
 少女の家である宿に向かう途中、広場の手前で寝そべっていたバティと屈み込んでそれを見下ろすフレイの二人に遭遇して、アネットは彼らに尋ねた。
「うるせえ」
 しかし、ただバティはふてくされてそっぽを向くだけだった。

 

「いやー、まさかあんたらが知り合いだったなんて思わんかったわ」
 置かれたカップの立てる湯気の向こうで陽気に笑う少女。彼女の気勢に押され、兄妹は愛想笑いを浮かべて顔を見合わせた。
 少女の名はヴァレアといった。この宿屋の一人娘だそうである。
「しかしヴァレアさん、お強いですよね。どこかで格闘技とか習ってるんですか?」
「へ? ああ、そっか。あんたさっきのあれ見とったけんね。やーっ、恥っずかしいけん、忘れたってな」
「ねえ、いったい何の話?」
 二人の話の内容が分からないので、アネットはフレイに尋ねてみた。フレイはああ、とひとつ頷いて、
「さっきバティがヴァレアさんに突っかかっていってな、その時にあいつをひょいっと投げ飛ばしたんだよ。かっこよかったぞ」
「かっこええだなんて、そんな照れるわー」
「その話は忘れろって言ってんだろ!」
 濡れて泥にまみれた服を隣の部屋で着替えてきたバティが、怒鳴り声を上げて部屋に入ってきた。バティは頭に乗せた小さなタオルでまだ濡れている髪を拭きながら、ふてくされた様子で兄妹の隣に腰掛けた。
「そんなこと言われてもなあ、あれだけ派手にやられちゃ、忘れようにも忘れられないぜ」
「ちきしょう! 勝手に言ってろ!」
 バティはぼやいてタオルを投げると、目の前にあるお茶の入ったカップを手にして中身をすすった。フレイは苦笑混じりにその様子を見てから、視線を再びヴァレアに戻した。
「それでヴァレアさん、さっきのことなんですけど」
「ああ、せえや。まあちいちゃい頃にちょっとやっててんね。あとはオズ君から」
 それを聞いて三人はそれぞれに驚いた。オズといえば先程彼女が担ぎ上げてこの宿に連れ帰ってきた少年である。まさかあの少年がこの少女に格闘技を教えているとは到底思えない。
「冗談……だろ?」
「なんであたしがそんな嘘つくんね!」
 最初に口をきいたバティをヴァレアは鋭い視線で睨みつけた。ここに来る途中といい、今といい、彼女はバティが口を開くたびにこうして怒っている。
「なんだよ! ちょっと聞いただけなのに突っかかることねえだろ!」
 バティもそのたびにこのように怒って彼女に怒鳴り返す。
「言っとっけんど、オズ君はあたしなんかよりずっと強いけんね! あんたなんか指先でちょちょいやんね!」
「へっ、あんなガキにそうひょいひょいやられてたまるかよ……うおっ!」
 バティがあざ笑って椅子に腰掛けようとした瞬間、がたんと音がしてバティの姿が消えた。そしてすぐさまバティの消えたところから鈍い音と振動がする。
「お、おい、バティ!」
 フレイが立ち上がって見やると、バティは尻餅をつき倒れた椅子にすがりついていた。
「い、いてて、何なんだよ、一体……」
 ぼやくバティの向こう、椅子の背もたれのある辺りに靴の先が見えたのでフレイは視線を上げた。するとそこに腕組みをしている少年、オズが立っていた。
「誰がガキなんだよ」
 オズはむくれた顔をして倒れるバティを一瞥し、あ然となる兄妹の後ろを抜けて、ヴァレアの隣にある椅子を引きそこに腰掛けた。
 しばらくの沈黙。
 誰かがカップを傾ける、軽快で、それでいて重々しい音がひとつ。
「なあ、まだ怒ってんねか?」
 ヴァレアは先程までの陽気な装いを隠してオズに尋ねた。オズはそんなヴァレアに視線を向けようともしない。
「関係ないじゃん」
 ヴァレアは意気をなくし、肩をすぼませてうつむいた。
「そんな、あたしは……」
「関係ない、はないだろ」
 フレイが目の前でそっぽを向くオズを見据えた。アネットとヴァレアと、そしてバティの三人の注目が彼に集まる。
「お、お兄ちゃん……」
「ヴァレアさんは真剣に君のことを気にかけているんだぞ。それなのにそんな態度はないだろう」
「フレイ君、ええんね。あたしは別に……」
「違うんですか?」
 ヴァレアは何も言えず、投げかけられたフレイの視線から顔を逸らした。
「なあ、オズ君」
「うるさい!」
 諭すフレイの声を遮ってオズは声を張り上げ、椅子から立ってフレイのことを睨み返した。
「ぼくのことなんて何も知らないくせに、分かったような口きくんじゃない!」
 オズの放つ強烈な怒気にフレイは軽い寒気を覚えて身震いした。そしてオズは椅子を蹴り飛ばして部屋から飛び出していった。ヴァレアは立ち上がりそれを追いかけようとしたが、すぐさま叩きつけるようにドアを閉める音がして、彼女の動き出そうとしていた足が引き止められる。
「おい、ちょっと待て……」
「ええんね」
 代わりに追いかけようとしたフレイをヴァレアが引き止める。
「ヴァレアさん! どうして……」
 驚き食ってかかろうとしたフレイに背を向け、ヴァレアは先程オズが出て行った扉とは反対側にある扉に向かっていった。
「あの子の気持ちもよく分かるんねやから。なあ、フレイ君、アネットちゃん、ちょっとこっち来」
 呼ばれた二人は少し顔を見合わせると、銘々に席を立ち、彼女に従われるまま扉の向こうへと消えていった。
 そうして、静まり返った広い部屋の中にひとり、バティだけが残される。
「……面白くねえよな」
 この町に来てからろくな事があったためしがない。何をしても空回りをしているだけでなく、ことあるごとに周りから非難を受けている。人から誉めてもらえるような性格でないことは百も承知しているが、ここまでくるといい加減理不尽も甚だしいと思えてきた。
「気分転換に外にでも出るか」
 バティは濡れた前髪を少しいじり回してから、立ち上がって部屋を後にした。

 行われるはずであったバザーが取り止められ、アルカパでは店先に立つ人も道を行く人も誰もが不満そうな顔を見せている。バティはオラクルベリーに行く前に一度、三日間だけこの町にいたことがある。その時から彼はこの町のことを退屈な場所だと思っていたが、今の活気の見えない通りの様子はその町の様子をさらに退屈そうな雰囲気に見せているような感じがする。
 ビスタの船乗りにアルカパはバザーで賑わういい町だ、と聞かされてきたのだが、そんな雰囲気は微塵も見られない。
「ったく、しけた町だな。バザーだか何だか知らんが、それが中止になったくらいでこうなるようじゃ、底が知れてるぜ」
 重苦しい雰囲気の漂う大通りを、悪態を付きながらバティが歩く。柄の悪そうな少年が景気の悪そうな顔をして歩いているので、すれ違う人たちは彼と目を合わせようとはしない。
「なんだよ、何も逃げることないだろ。胸くそ悪いな」
 別にさらに不機嫌になるために彼は外に出たわけではない。れっきとした理由があってのことである。だが、この分ではろくにそれを果たすこともできないだろう。
「……しょうがねえな」
 バティは手近の店に入っていった。店の中には数人の客と、店番をしている中年の男性がいるくらいであった。賑やかそうには見えないが、寂れているわけでもない。この程度の大きさの町にある店ならばよくありがちな光景である。
 バティはカウンターに真っ直ぐ歩いていくと、棚の整理をしている店番の男を呼びつけた。
「はい、いらっしゃいませ。何かご用件でしょうか」
 男は作業の手を止めると、カウンターに立って愛想笑いを見せた。
「いや、用ってほどのもんじゃないんだが。ちょっと聞きたいことがあってな」
「はあ。私にお答えできるようなことでしたら何なりと」
「そうか。実はバザーのことなんだがな」
 バザーと聞いて男の顔から笑いが消えた。やはり何かあるようだ。バティはそれを確信すると、声を潜めて続きを尋ねた。
「どうして中止になったんだ? 理由が知りたいんだが」
「まだ中止になったわけではありません。理由については私の口からはお教えできませんので、どうかよそでお願いいたします」
 男も耳打ちするように小声で答えを返した。バティは顎に手をやり、下唇を持ち上げてひとつうめいた。
「分かった、そうする。邪魔したな」
 彼は男に聞かれないように小さく舌打ちをして、店を後にした。
(こいつは何か後ろ暗いことでもあるのか、それともかん口令でも敷かるような重大なことなのか、そのどちらかだな)
 店を出た先で、バティは目を閉じ、大きく深呼吸をした。
「……うん?」
 目を開けたバティは、町の雰囲気にそぐわない二人組の姿に気が付いた。二人組は身を丸めて通りから路地裏へと滑り込んでいった。それが気になったバティは、二人を追って自分も裏道へと足を伸ばすことにした。
 やせと太っちょのその二人組は、時折周囲の様子を見ながら暗い路地を右へ左へと進んでいく。バティは彼らに気付かれないように注意しながら、後を追っていった。すると彼らは、木や茂みに覆われた狭い空き地の中へと飛び出した。
「おい、スモック。誰もいないか、ちゃんと確認したか」
「へい、兄貴。ばっちりでやんす」
 隠れて二人の会話を聞いていたバティは思わず目をむいた。
(……スモックだと? スモックっつったら、お尋ね者ハンターコンビの一人じゃないか。つーことは、あのデブの方は、親分のビッグか? んなバカな)
 その筋では有名な二人組の後を簡単につけれてしまったことにバティは驚いた。二人は影で息を潜めるバティの気配に気付くこともなく話を続ける。
「それでどうだ、首尾の方は」
「もうさっぱりッスよ。どこに入ってもろくなものがないッス」
「ちっ、バザーに当て込んで来てみりゃ、この始末か」
 どうやら彼らはこの町に来て泥棒を繰り返していたらしい。名高いハンターと言っておきながらこの始末か、とバティは呆れてため息をついた。
「こうなりゃ、今朝の話を信じてあそこに行くしかないか」
「ええっ、マジっすか!? でも兄貴、もしその話がデマだとしたら、行って帰ってくるだけ無駄足踏むだけでやんすよ」
「仕方ねえだろ。オラクルベリーに行くまでの時間を考えたら短いもんだ。それに本当ならば、見返りはきっと信じられねえくらいでっかいぞ」
「へえ、分かりやした。俺はどこまでも兄貴に着いていきやす。それじゃあ……」
「ちょっと待て」
 不意にビッグがスモックの前に腕を出して遮った。
「どうしたんでやんすか?」
「誰かがいるみたいだぞ」
 それを聞いてバティの胸が高鳴った。ビッグの気配が近付いて来るにつれ、彼の鼓動がどんどんと早まっていく。
「え、でも俺はちゃんと誰もいないことを確認してきたでやんすよ。気のせいじゃないッスか?」
「確かに気配がすんだよ! ちゃんと見張ってきたんか、この馬鹿野郎が!」
 近いところでビッグの怒鳴り声がする。バティは耳をそばだてる傍らで、いつでも走りだせるように体勢を低く構えた。
「そこにいるのは誰だ!」
 ビッグの声がしかかったところで、バティはすぐさま駆け出した。ビッグが顔を出したその時には、バティの姿は路地のはるか先の方まで遠ざかっていた。
「待ちやがれ!」
 ビッグがその巨体からは思いもつかないような速さでバティの後を追いかけた。どれだけ進んでも、二人の間の距離は縮まりこそはしないものの離れることもない。バティは、いっこうに遠ざかる雰囲気のないビッグの気配にいら立ちを覚えながら、裏道の曲がり角を小刻みに回りながら駆け抜けていった。
 そうして彼は裏道から明るい表通りへと飛び出した。思わず広い道に出てしまったことで彼の足が一瞬止められる。その間にもビッグの気配が徐々に近付いてくる。彼は一つ舌を鳴らしてから、目の前の橋の中ほどまで走ると、そこから思い切って身を投げ出した。
「くそっ、どこへ行きやがった!」
 ようやく駆けつけてきたビッグが橋の上で周囲を見渡す。だが、バティの姿はまったく見当たる様子がない。その間に、息せき切ってスモックが追いついてきた。
「ひぃ、ひぃ……兄貴〜、俺、もう走れないッスよ〜」
 情けない声を上げてふらふらとやってくるスモックの頭を、ビッグは力任せにわしづかみにした。
「だからお前は馬鹿野郎ってんだよ! さっきの話、聞かれでもしてたらどうするつもりなんだ、ああ!? いっぺん、こっから川ん中へでもぶん投げてやろうか!」
「いっ、痛い、痛いッス! 兄貴、勘弁してくれッスよ〜!」
 ビッグはいら立った様子で、泣きわめくスモックの脇腹を蹴りつけた。
「もういい! テメェも早く準備したら来い! 今度ヘマしたら、そん時ゃ、ただじゃおかねえからな!」
「へっ、へ〜い!」
 そうして二人はその場から去っていった。二人の気配が完全に消え失せてからしばらくして、さらさらと流れる小川にかかっている橋の下からバティが這いずり出てきた。
「……くっそ、折角着替えたばっかだってのに、また水浸しかよ……」
 橋の上で濡れた服の裾を絞って、彼は忌々しげにひとりごちた。

 

 ヴァレアに従われてフレイとアネットがやってきたのは、ヴァレアの自室だった。部屋はきれいに整えられていて、意外にも彼女が細かな感覚を持った女性であることに気付かされる。
「それでヴァレアさん。どうして僕たちをここに呼んだんですか?」
「ちょっとそこに座って待っとって」
 ヴァレアは部屋の片隅にある二人がけの小さなテーブルを指差した。二人が言われるままそこにつくと、ヴァレアはタンスを開けて中身をあさり始めた。
「あった」
 彼女は引き出しの奥から何かを取り出すと、それを二人のかけるテーブルの上に置いた。置かれたものは一つの汚れたペンダントのようなものだった。錆がひどく判別がいきづらいものの、そこには明らかに何かの紋章とおぼしきものが彫られていた。
「これは?」
 フレイが置かれたそれに手を伸ばす。さびた金属のひどくざらついた感触がした。持ち上げてみると、意外にも軽い。材質が鉄や銅などではなく、もっと特殊な金属であることは明らかだった。
「オズ君はここの子じゃないんねよ」
 ヴァレアの告白に二人が一様に驚いた顔を見せる。
「どういうこと、ですか?」
「二年くらい前の話ねんやけどな」

 朝から空が厚い雲に覆われてた日やってん。雨は降ってねかったけど、ずっと夜中みたいに真っ暗で、変な日やった。
 あん時、あたしはお母さんのお使いで、市場に夕げの材料の仕入に行って帰ってくるところやった。
 勝手口に回ったところで、どこか近いとこからなんかすごい音がしたんね。バリバリ、って光りながら。
 そりゃもう驚いて、荷物なんてその辺に置いてそっちに駆けつけたんね。そしたら裏庭の植え込みの中に、布きれにくるまれたでっかい何かが落ちとったんねよ。
 何や思て茂みからそれを引きずり出して布を開いてみると、中にちっちゃな男の子が入っとってんね。
 それがオズ君やった。その紋章はその時オズ君と一緒になってくるまってた物やってん。
 あたしがオズ君を引き取ってこの家で育てる、って言った時はお母さん、そりゃあびっくりしたよ。
「うちはあんたを育てるだけでもいっぱいいっぱいだってのに、もう一人食いぶちを増やすだなんてできないよ」ってね。あん時はまだウチも小さな旅籠やってん、あたしもよくそのことは分かっとったんねやけどな。
 けど、「どうしても」ってあたしがしつこくせがんだら、お母さん、ついに許してくれてんよ。それまでに外に二日くらい放り出されたこともあってんけどな、何でや知らん、無性に放っておけんくってな。
 で、オズ君はここの子供として育てられることになってんよ。拾った時にはもう充分大きな子やってん、あんたは本当はここのうちの子じゃない、ってことは最初から教えといてんけどな。
 そしたらもうびっくりよ。どういうわけか、オズ君が来てからウチが繁盛してな、今じゃアルカパ一の旅籠やんね。
 でな、ここからが本題やんね。
 オズ君はどこから、どうしてここに来たんか、自分がどこの、どんな子やってんか、さっぱり覚えとらんかってんよ。記憶が無くなってんか、それとも消されてんかな。
 で、あたしは何かの手がかりになるかもて思て、一緒にくるまってたその紋章を古物商さんに見せに行ってんよ。
 そしたらその古物商さん、何て言った思うん?
 これは代々レヌールの王侯貴族に伝わるレリーフやって言うんねよ。そりゃもうびっくりしたよ。それじゃあオズ君はその貴族に関わる人ねんやろか、ってな。
 でもな、レヌールっちゃあ、あん当時から裏で醜い地位や派閥の争いがあるって町じゃ有名やってん。もしオズ君が本当に貴族で、何かそういう争いに関わってるんやったら、そう思ってな、あたしはこのことを私だけの胸にしまってオズ君には話さないことにしてんや。オズ君をそんな醜い世界に放り込みたくない、ってな。
 けど、オズ君はレヌールの話を聞くたびに、なんか落ち着かない様子をするんね。まるで、お城と引きあってるみたいな感じでな。
 だから、あたしはオズ君がレヌールに行こうと思うたび、体を張ってでも引き止めてきてんね。

「なあ、こんなあたしって、過保護やねんかな?」
 ヴァレアが淋しそうな笑顔を見せる。二人は何も言えず、ただじっと視線を落とすのみである。
「でも、ヴァレアさん。どうしてこんな話を、私たちに……?」
 アネットが尋ねると、ヴァレアは小さく笑って扉の方へと歩いていった。
「う〜ん、何ていうんねやろ。あんたらなら話してもいい、話すだけの価値のある人やって、思ってん」
「話すだけの……価値……」
 ヴァレアは扉を開けて二人を呼ぼうとした。
 そして彼女が開いた扉の向こうには、呆然と立ちつくすオズの姿が。
「オ、オズ、君……」
 言葉を失うヴァレア。オズの身体が小刻みに震えている。
「おねえちゃん、今の話、どういう事……?」
 オズは震える声でヴァレアに尋ねた。
「き、聞いとってんねか、オズ君。あのな、今のは……」
 オズは顔を上げると、涙を端に浮かべた目でヴァレアのことを睨みつけた。そして彼はひるんでいるヴァレアを力任せに突き飛ばすと、彼女に背を向けて一目散にその場から走り去っていった。
「お兄ちゃん!」
 アネットがフレイを見上げると、彼は無言でひとつ頷き、消えたオズの姿を追いかけて走って行った。彼が消えるまでの間に、アネットは倒れているヴァレアに寄り添って、その身を抱き起こした。
「大丈夫ですか、ヴァレアさん?」
 するとヴァレアはアネットの腕を振り切って自分で立ち上がった。
「早く、追っかけんと……! あの子、ずっとずっとレヌールに行きたがってんよ! それも最近になってから頻繁に。そこへあの話や、絶対にレヌールに向かってったに違いないんね!」
 ヴァレアはおぼつかない足取りで部屋を飛び出した。アネットも慌ててそれに着いていく。
「ま、待って下さい! 私も、行きます!」
 そうして二人は一緒に外へと出て行った。

 ぺたぺたと足跡を付けながらバティが宿に戻ってきた。そして彼が袖口から滴をしたたらせて入り口の扉に手を伸ばすと、扉はものすごい勢いで手前に押し開き、バティの手をしたたかに弾き飛ばした。
「いってぇ!」
 痛みにおののきうずくまるバティの横を、大小二人の少年が駆け抜けていった。巻き起こる埃が、再びバティの体を泥まみれにする。
「くっそー……やい、お前ら! ドア開ける時はもっとそっとやりやがれ!」
 バティが既に消え去った二人に文句をわめき立てていると、続いてヴァレアとアネットの二人が中から飛び出してきた。
「あ、バティ君。うわ、どうしたの、その格好!?」
 最初に彼に気付いたアネットが彼の姿を見て驚き、口元に手をあてがった。
「どうもこうもしねえよ! それよりさっきのはいったい何なんだ!?」
「オズ君が飛び出して行ってん、今からそれを追っかけるとこやんね! あんたも来うけ?」
「けっ、お前なんかと一緒だったらどこにも行きたくねえよ! 俺は中に入って待ってるぞ。着替えもしたいからな」
 バティがそう吐き捨てると、ヴァレアはいきり立った様子で腰に手を当て彼を睨みつけた。
「あああ、そうけ! じゃあ、中でゆっくりしてるとええね! 行くよ、アネットちゃん!」
「……あ、はい。それじゃあバティ君、行ってくるね。あ、風邪、ひかないように気をつけてね」
「んなこと言ってるヒマあったら、とっとと行け」
 バティがヴァレアの走って行った先を指差すと、アネットは急いでそちらへと駆けていった。
 喧噪が消えた後随分経ってから、バティは開かれっ放しの扉にもたれかかり、四人の走って行った通りをじっと見つめた。
「……とは言ったものの、やっぱ放っておけないよな。くそ、とんだ厄日だぜ、今日はよ」
 彼はひとつぼやいてから、汚れた服を着替えようともせず、自分も四人の後を追って駆けていった。

「どやった!?」
 町の入り口当たりで顔をしかめて立っているフレイとかち合って、ヴァレアは彼に尋ねた。すると彼は肩をすくめて小さく首を横に振った。
「すみません……駄目でした。とりあえずここから外に出て西の方に向かっていったから、まず間違いなくレヌールに向かったんだとは思いますけど」
「せやか……」
 ヴァレアが力なく肩を落とす。
「とにかく、ここからは危険ですし、三人で行きましょう。バラバラに行くと危険ですから」
「けど……あんたら旅の途中ねんやろ? そんな余計な手間をかけさせちゃ……」
「いいんですよ。私たちも責任を感じるものがありますし」
「それに俺たち、急ぎの旅でもありませんから」
「……ごめんな。ほんに気かけさせて」
 まだうなだれるヴァレアの方にアネットが優しく手を添えた。
「いいんですよ。さあ、行きましょう」
「オズ君が無事にレヌールまで着いてればいいんだけどな……」
 フレイが何気なく口にしたその一言を聞いてヴァレアの表情がさらに曇ったのを、二人は気付いてはいなかった。

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