第3章

 襲いかかってきたグリーンワームがもたげた鎌首を、真空の刃が切り裂く。
 首から上下を真っ二つに切り離されたグリーンワームは、二メートルはあろうかというその巨体を横転させ、草の上で何度も身をよじらせてからその動きを止めた。
「…………」
 咄嗟のことで呪文を放ったアネットは、両手をかざして呪文を唱えた時の姿勢のまま、しばらく呆然とその様子を見ていた。
 サンタローズを出る前に、呪文の抑制の技術は一通り教わってきた。今放ったバギくらいの呪文ならば、その気になれば押さえ込むことはできた。
 しかし、彼女はその呪文を放っていた。無意識とも、故意とも言える力で。
「おい、アネット!」
 フレイの声で我に帰ったアネットは、いつのまにか自分に覆い被さるように大きな影が伸びていることに気が付き、背後を振り返った。
 先程彼女が切り倒したのと同じ、巨大なグリーンワームが今にも彼女のことを押し潰そうとその巨体を持ち上げている。すぐそこまで危機が迫ってきている、というのに、彼女は一歩も動くことができなかった。
「くっ……!」
 フレイが手にした剣でその怪虫を背後から切り裂く。背中を大きく割られたワームの体は、立ちつくしているアネットの横をすり抜けて地面へと倒れ伏した。晴れた視界の向こうから、露骨に怒った様子のフレイの姿が現れる。
「何やってんだよ! 今どんな状況なのか、分かってるんか」
「うん、分かってる……」
 フレイの怒号から逃げるように、アネットが目を伏せ顔を背ける。フレイは周囲に敵がいないことを確認し、剣についた青い血のりを拭き取りそれを鞘に収めると、歩幅を大きくしてアネットに詰め寄っていった。
「何が『分かってる』だよ! 全然分かってないじゃないか!」
 フレイはアネットの肩をわしづかみにすると、彼女の顔を強引に自分の方に向けさせた。
「あのな、今はきれい事なんか言ってる場合じゃないんだぞ。魔物だろうが野ウサギだろうが、襲いかかってきたらその時点で敵なんだよ。敵は倒さなけりゃこっちがやられるだけなんだぞ」
 フレイの語気や態度は荒々しさを過ぎて乱暴になっている。それを見かねたヴァレアも二人の元に近付いてきた。
「フ、フレイ君、もうそのへんにしといて……」
「ヴァレアさんはさがっていて下さい。これは俺達だけの問題ですから」
 剣呑な目つきで睨まれ、ヴァレアは思わず彼から身を引いた。
「あのな、アネット。こうして危険を知って出てきている以上、戦えなければ駄目なんだ。俺達が自分以外の身を守れるくらい腕が立つんなら別だが、あいにく俺達はそこまで強くない。だからアネット、お前はお前でしっかり戦って、自分のことは自分で守らなくちゃ行けないんだ。もしそれができないっていうんなら、お前は単なる足手まといだ、邪魔なんだ! そうして俺達の足を引っ張るくらいなら、アルカパなりオラクルベリーなりで大人しく引っ込んでいてくれたほうがましなんだ!」
 フレイの苛烈な言葉に、アネットが打ちひしがれたように大きく身を震わせる。
「フレイ君、それはちょっと言い過ぎねんやと違うか!?」
 下がっていたヴァレアも、フレイのあまりの言い様に少し語気を荒くして口を挟んできた。
「いいんですよ。お願いですから、ヴァレアさんは引っ込んでいて下さい」
「そうはいっても、こればっかりはそうもいかんね。フレイ君、ちょっと今のは……」
「俺だっていいたくないですよ、こんな事!」
 フレイのその一言に、ヴァレアは意気を削がれてその場に立ち止まった。
「けど、本当のことだから仕方ないんですよ。俺達は決して行楽気分で、物見遊山で旅をしてるワケじゃないんです。これから先、どんな危険が待ち受けているかも分からないんです。それなのに、さっきのアネット見たく中途半端な気持ちでいるのは、そんなことはとても危険なことなんですよ」
「あ……」
 辛そうにしている表情を見せないように顔を逸らし語るフレイ。ヴァレアはその様子に再び言葉を失い、一歩後ろに身を引いた。
 そしてフレイは見下しでもするかのような目つきで、うなだれているアネットのことを見据えた。
「アネット……引っ込んでいるか、真面目に戦うか、どっちかはっきり決めてくれ」
 アネットは魂でも抜かれたかのようにゆらりと立ち上がると、涙のにじんだ目でフレイのことを睨み返した。
「……戦えば、いいんでしょ……。私は……足手まといなんかじゃ、ないもん……」
「本当だな?」
 フレイが念を押して尋ねると、アネットはふてくされたような面持ちで一度頷いた。
 それを確認してから、フレイはヴァレアに声をかけて、レヌール城に向けて歩き始めた。
「…………お兄ちゃんの、馬鹿!」
 しばらく立ち止まったまま、アネットはひとりごつように小さく怒鳴り声を上げた。

 

 レヌール城は、見るも無惨な姿になり果てていた。
 美麗であることで名を馳せていた白亜の城壁は、原型が見えないほどに崩れ去り、立ち並ぶ木々のほとんどは真っ黒にすすけ、広場の泉は青黒くよどみきっている。
 そして、その荒廃しきった城内を、異臭を放つ瘴気が取り巻いている。
 レヌールに辿り着いた三人は、その様子に言葉を失うとともに、先程から辺りを支配している禍々しい気配を感じて身構え、周囲に注意を張り巡らせた。
「この気配は……」
 悪意を持って潜み、こちらのことをうかがう気配。強烈に押さえつけてくるようなその気配は、明らかにこの近くに人ではない何か、おそらくは魔物が、それもたくさんいることを示していた。
 魔物が自分達のことを狙っているかもしれない、魔物と戦わなければならないかもしれない、それを知ったとき、アネットは暗い表情をして顔を背けた。
「よそを見るな、アネット。いいか、たとえ魔物が、それも自然の魔物が襲ってきても、ちゃんと戦え! 今はどうこう言っている場合じゃないんだ、分かるな」
 フレイに諌められ、アネットは再び前を向いた。
 前方から迫り来るいくつもの悪意と野性的な殺意。その中には超自然的な存在もあれば、おそらくはフレイがいったように自然の魔物もいるだろう。
 そう思うと、アネットの心に逃げ出したい衝動が幾度も顔を覗かせては消える。
「なあ、アネットちゃん……あんまり気が進まんようねやったら、無理して着いてこんでもええんねやで?」
 その様子を見かねたヴァレアが、アネットに優しくそう告げた。しかし、アネットは強く首を振ってそれを拒んだ。
「いえ、いいです。私だって、オズ君のことが心配ですから。それに……」
 アネットは目尻をつり上げて、目の前の兄の背中を見据えた。
「お兄ちゃんに『足手まといだ』なんて、これ以上言われたくないですから」
 そこには兄に徹底的に言われて意固地になっている自分がいた。だが、その意地が今の彼女を支え守っていることも間違いのないことである。
「さあ、行きましょう、ヴァレアさん。予想があっているのなら、オズ君はここにいるはずなんですから。こんな危険な所にあの子を一人で放っておくわけにはいきませんよ」
 アネットは前にいる二人を追い越して、城内に続く道を一歩踏みだした。
「あっ、アネットちゃん、待っ……」
「アネット、危ない!」
 ヴァレアが声をかけようとするよりも早く、フレイはアネットの元に駆け寄り、彼女を抱えて舗道から大きく飛び退いた。
 次の瞬間、カタカタという音が鳴ったかと思うと、物陰から長い骨だらけの何かが三匹、一斉にアネットのいた場所に飛びかかってきた。突撃の勢いで道路の舗装はえぐり取られ、辺りにその破片が飛び散る。
「何だ、こいつらは!?」
 フレイはすぐさま剣を抜き放って、先程飛びかかってきたそれらに目を向けた。
 大ぶりの頭骨と、円筒形の脊椎が無数に組み合わさっただけの生き物。体長はアネットのせくらいはあるだろうか。骨だけであることを無視すれば、その形態はヘビそのものであった。ガイコツ達はまたカタカタと音を鳴らしながら、再び彼らに飛びかかろうと体勢を整えている。多少滑稽だがあまりにも不気味なその様子に、三人は戦慄を覚え息を呑んだ。
「何している、アネット。早くお前も準備しろ!」
「え……あ、うん……」
 複雑な思いに戸惑っていたアネットは、兄のその一声に慌てて杖を取り出し、それを両手に持って構えた。それとほぼときを同じくしてガイコツはそれぞれに獲物を決めてそちらへ鎌首をもたげた。
「行くぞ!」
 かけ声とともに、フレイとヴァレアが自分の方を向いているガイコツに向かって飛びかかっていった。ガイコツは何かをするわけでもなくカタカタと身を揺らしている。
「お兄ちゃん、ヴァレアさん、危ないっ!」
「えっ!?」
 アネットの声に二人が驚いて動きを一瞬だけ止める。その次の瞬間、辺りを凄まじい冷気が取り巻いた。
「!!」「!!」「!!」
 三体のガイコツがそれぞれに言葉にならない声を上げたかと思うと、周囲の冷気が形を成し、鋭い槍となって二人に襲いかかってきた。氷の槍は、フレイの右足をヴァレアの左の腕と脇腹を切り裂いて地面に突き刺さると、すぐさま蒸発して跡形もなく消え去った。
 辺りに血飛沫が舞ってその場に二人がうずくまる。
 ガイコツ達は大きく一度身を震わせると、その二人に飛びかかろうと体勢を低くした。
「ギラ!」
 アネットが咄嗟に呪文を唱えると、彼女の手にした杖の先から炎が吹き出した。飛び上がった三体のガイコツはその炎に包み込まれ、叩きつけられるように地面に墜落する。
 炎に焼かれて苦しいと感じているのか、ガイコツはのたうち回るように身をよじらせながら、再びゆらりと頭をもたげてアネットの方に顔を向けた。その様相は、煉獄の中で助けを求めてくる亡者のようであった。
「ひっ……!」
 その恐ろしい有様に、アネットがこの上ない恐怖を覚えて身じろぐ。敵が怯んだとみて、三体のガイコツ達は炎を背負ったままよろめくようにアネットの方へにじり寄っていった。
「い、いや……来ないで……!!」
 一歩、また一歩と、アネットは杖を振り回しながら後ずさりをする。ガイコツ達は一度身を屈めて、怯えるアネット目がけて飛びかかっていった。
「いやああああっ!」
 アネットが悲鳴を上げてその場に屈み込む。
 その直後、一筋の光がきらめいたかと思うと、三体のガイコツは瞬く間にばらばらに切り裂かれて地面に落ちた。
「あ……」
 恐る恐るアネットが顔を上げると、彼女とガイコツの残骸との間に、ひざ立ちで剣を振り下ろしているフレイの姿があった。
「大丈夫か、アネット」
 フレイが振り返る。
 緊張した面持ち。顔一面には汗が浮かんでいる。
「あ、うん……」
 まだ混乱から立ち直っていないアネットは呆然と返事をした。
「……っ!!」
 その直後、アネットは戦慄した面持ちで息を呑んだ。何事かと思いフレイがアネットと同じ方を振り返る。
「なっ……!」
 そしてフレイも驚きの声を上げた。
 地面で、彼が切り捨てたはずのガイコツの頭部がコトコトと鈍い音を立てて微かにうごめいている。幾つもに分断されたというのに、未だ動き彼らのことを襲おうとしているのか。
 ひどく不気味に思えてきて、フレイは剣の鞘を両手で持ち、うごめくガイコツ達の頭部を一つ一つ丹念に潰していった。バラバラになった頭骨の眼孔の奥から青白い光が消え、その動きが完全に止まる。そして、ガイコツ達を取り巻いていたくすぶるような炎がようやくその姿を消した。
 二人はしばらく物も言わず立ちつくして先程の光景を思い返した。
「ね、ねえ、お兄ちゃん……これって……」
 アネットが何を聞こうとしていたのかを素早く察知して、フレイが頷く。
「多分、元は普通のヘビだったんだろうな。その死骸が何かに操られていたんだろ」
「こんな姿になってまで……ひどい……」
 辛そうに胸の前で両手を握り、バラバラになって地面に広がる白い破片を見つめるアネット。
「なあ、アネット。これでも、まだ魔物と戦うのは嫌だと言い張るか?」
「…………」
 アネットが口をつぐんで顔を背ける。
「まただんまりか。あのな……」
 アネットに言い聞かせようとフレイが身を乗り出すと、彼女は懸命に首を左右に振った。
「……そうじゃないの。まだ……気持ちの整理が、ついていないだけ、だから……」
 消え入りそうなアネットの声。その声の中に激しい戸惑いが見える。フレイが忌々しそうに拳を握り歯がみをする。
「…………ねえ、お兄ちゃん。私、やっぱりアルカパに戻ってようかな」
「何を言い出すんだ、いきなり?」
 驚いてフレイが顔を上げた。杖を両手に抱えうつむくアネットの視線が彼から逸れているのがわかる。
「だって、私のこと、もっと『足手まといだ』って、思ったでしょ? さっき、私が勝手なことしなかったら、こうやって襲われることも、なかったんだから……」
 アネットの目から遂に涙のしずくがこぼれ落ちる。その表情に浮かんでいるのは悲しさではなく、どうにもならない悔しさ。彼女の考えていることは未だもってまったく見当も付かないが、少なくとも彼女が自虐的になっていること、その原因が自分にあることに気付いて、フレイは優しく手を差し伸べてアネットの頭を撫で回した。
「……お兄ちゃん?」
 アネットが目を丸くして兄の顔を見上げる。
「何を言い出すのかと思ったら……いつ俺がそんなことを言った?」
「で、でも……」
「警戒していてもどのみち少なからず襲われてただろうさ。それにお前、さっき俺達に注意を促したり呪文で攻撃したりしていただろ。ちゃんと戦闘に参加していたじゃないか」
「…………うん……」
「だからそんな顔するなっての。今のお前は『足手まとい』なんかじゃないさ」
 小さく頷くアネット。その目からはいつしか涙が消えている。
 それでもまだ元気なくうつむくアネットの様子を見て、フレイは彼女の頭から手を離して背中を向けた。
「その……悪い」
「え?」
 何を言い出すのかと思いアネットが顔を上げる。
「だから、さっきあんなひどいこと言って……ごめん。だから、機嫌直してくれ」
「う、うん」
 照れ臭そうに頬をかくフレイ。少しだけ、アネットの表情に明るさが戻ってくる。
「なあ、いいムードのとこ悪いんねやけどな……」
「わっ!」
「きゃあ!」
 突然間にヴァレアが割り込んできて、二人が驚いて飛び上がる。
「なっ、何ですかヴァレアさん、いきなり!」
「らぶらぶ〜もええけど、先に怪我の手当したってほしいんねや」
「あっ……」
 脇腹を押さえるヴァレアの指の間から幾筋もの血が流れ落ちている。それらしく見せてはいないが相当に辛そうだ。
「ごっ、ごめんなさい! 今すぐ手当をしますから……」
 慌ててアネットが鞄をあさり、呪文と薬草でヴァレアの介抱を始める。
 その間に、フレイは周囲の様子を探った。
 あの戦闘に勝ったおかげか、先程までの圧迫するような気配が少しだけなりを潜めている。無論、未だにこちらのことを密かに狙っているに違いないであろうが、とりあえず向こうもこちらのことを警戒するようになったようだ。
「お兄ちゃん」
「……なんだ?」
「足。ケガしてるよね。手当てしないと」
「……あ、ああ。そうだったな」
 呆然とするフレイに対し、アネットは慣れた手つきで手早く彼の足の怪我を治療する。
「なーにのぼせてんねや、フレイ君」
 ヴァレアに茶々を入れられ、フレイは顔を赤くしてそっぽを向いた。
「……それで、アネット」
「何?」
 足の治療が済んで、フレイはアネットに声をかけた。アネットが顔を伏せたまま返事を返す。
「どうする? 本当に、帰るか?」
 アネットは小さく首を横に振ると、脇に置いた杖を手に立ち上がった。
「ううん、行く。なんだか自信が出てきた、気がする……」
「そうか」
 そうして、三人は警戒をしながら荒れ果てた城の中へと入っていった。

 

 ドカン! ドカン!
「ひっ! ひゃあっ!」
 逃げ回る自分のすぐそばで、何度も破裂音を立てて火の手が上がる。たまにバランスを崩して倒れそうになるが、壁に手を突いてそれをどうにか防ぎ、また駆け出す。
 今自分を追い回しているのは、ろうそくを巨大にしたような得体の知れない生き物四匹。動き自体は鈍いのだが、たまにその頭に灯されている炎から顔の大きさくらいの火の玉が飛び出してきてはこうして自分に襲いかかってくる。一匹や二匹くらいなら倒すことだって可能だろう。だが、集団で襲いかかられては到底太刀打ちできそうにない。だからこうして逃げている。
「っ!!」
 手近な扉を開いてその中に駆け込む。すると先程まで自分を追撃していたやかましい音が、たちどころに消えて無くなる。
「……またか」
 この荒城に着いてからこうやって追い回されたのはこれが初めてではない。何度も追い立てられては、こうして場所を見つけて逃げ込むたびに、追跡がぴたりとやむ。ただ追い立てているというよりは、むしろどこかに誘い込まれているようにすら思われる。
 ひどく、嫌な予感がする。
「……このドアを開けて戻れば……」
 ノブにかけた両手に全体重を乗せて呟く。
 この扉を開ければ戻る道がある。だが、扉を開けた途端に先程のろうそくの化け物が襲いかかってくるのは目に見えている。最初、二回目と、同じようなことをやって襲われたのだ。きっと今回もそうに違いない。
 ここまで来た以上、もう引き返せない。それにこんな奥まで入り込んだことで、戻る気も失せていた。
(……もし誘われていたんなら、その先に何かがあるんだ。もしかしたら、ぼくの気にかかっている何かが、そこにあるかも知れない……! そうなら、罠だってなんだって構わない!)
 彼はそう意気込んで、狭い空間の反対側にある扉に手をかけた。

(……イデ……)

 その瞬間、どこからともなく囁くような声が彼の耳元に届いた。彼は慌てて扉から離れて、暗闇に染まる周囲を見回した。
「誰!?」

「これ、は……?」
 扉の向こうはいたって静かだった。彼は拍子抜けした様子で一歩、また一歩と慎重に目の前に開けた部屋の中へと足を踏み入れていく。
 部屋といってもその広さはかなりのものだ。彼の住んでいる宿の客室なら、十や二十は軽く入ってしまうだろう。上を見上げれば天井が遥か向こうにある。無論、他の場所同様、この部屋も所々が壊され崩されている。だが、それでもこの場には優美さがある。
「この部屋って……」
 部屋の向こう側には豪華に宝飾がなされた大きな椅子が二つ、その手前には一対の彫像。足元を見れば高価そうな赤絨毯が敷かれており、絨毯は真っ直ぐその椅子のある方へと向かっている。
 まず間違いなく、この部屋は謁見の間、玉座の間と言われる、その部屋なのだろう。

(……オイデ……)

 まただ。
 静かだったその部屋の中で、自分を呼ぶ声が鳴り渡る。
「誰? 誰かいるの!?」
 どこからともなく聞こえてきたその声に答えるように彼は大きな声で呼びかけた。
 次の瞬間、玉座だったのだろう椅子の上にぼんやりと青白い光が灯った。光は微かに明滅を繰り返し、まるでこちらのことを招いているようである。彼は少しだけ躊躇してから、赤い絨毯の上を一歩一歩ゆっくりとそちらへ向かって歩いていった。
 玉座の手前、一段せり上がった段差の手前に彼が辿り着くと、光はその明滅を早く細かにし、次第にその姿を大きくしていった。光は次第に人の形を取り玉座の周囲一帯を満たす。
「……あ……っ」
 呆気にとられるオズの目の前に、光に包まれるようにして、豪華な衣装を身に纏う高貴そうな男女が姿を現した。
「……オズ……」
 彼の名を呼び、男が閉ざしていた目を開く。凛としたその眼差し、精悍たる顔付き、それを見ているにつれ、オズは包まれるような不思議な感触を覚えていた。
「……オズ……」
 続いて女性が目を開けた。優しげだが、しかしどこか逞しさを持った女性。
 女性はオズに微笑みかけた。
「オズや。よく戻ってきてくれましたね……」
「戻って……?」
 女性の言葉に、オズは目をしばたたかせる。
「そうだ。お前は私達の息子、言うなればこの城の次なる主ではないか。お前は来るべきところに戻ってきたのだよ」
「えっ。でも……」
 この城は既にこんな有様じゃないか、自分があなた達の息子とはどういうことだ……いろいろと尋ねたかったが、その言葉を言い出す前に、女性が大きく手を広げてこちらのことを招いてきた。
「さあ、こちらへおいで。オズ……」
(…………っ!)
 一瞬、ひどく嫌な感覚が彼の頭を身体を駆け巡った。あまりの衝撃に、オズは頭を押さえて身体を前に屈める。
「どうしたんだい、オズ」
「さあ、はやくこっちへ……」
 二人はそんなオズをただただ招き続ける。オズはひどく重たく感じる頭をもたげると、鋭い視線で目の前の二人を睨みつけた。
「嫌だ、行かない!」
 そういう反応は想定していなかったのだろうか、二人が焦燥に満ちた面持ちになる。
「何を言っているんだ、オズ!」
「そうですよ。私達はあなたの親……」
「そんなこと知るもんか! ぼくにはアルカパのデルゼンおじさんとミゼットおばさんがいるんだ! 本当の子でなくっても、あの人たちが僕の親なんだ! お前達なんか知るもんか! いきなり出て来たくせに勝手に親の顔なんかするな!」
 オズの気迫に押されて二人がたじろぐ。
 だがそのすぐ後、二人は身を震わせたかと思うとその表情を禍々しく変え、玉座の上で再び強く輝きだした光の中へ吸いこまれるようにその姿をとけ込ませていった。
「うわあっ!」
 二人の姿が完全に消え失せる寸前に、光の玉は一度まばゆく発光した。その光が目に突き刺さり、オズは思わずその場に倒れ込む。
「う、うう……」
 少しずつ視力が戻り、ようやくぼんやりと辺りが見えてくるようになって顔を上げると、玉座の上方にぎらぎらと青い光を放つ光の玉が姿を現していた。オズの上半身くらいはすっぽり包めてしまいそうな大きさのその光の玉は、うごめくようにその表面の形を変えていたかと思うと、やがて一面におぞましい形相をした老爺の顔が浮かび上がらせてきた。
「ひっ……!」
 見開かれた眼孔、鋭いわし鼻、大きく避けた口……鬼気迫るその表情は、まるで物語に姿を現す悪魔のようにも思われた。あまりの恐ろしさにオズの喉元から悲鳴が上がる。
(おのれ、アズルドの孫息子めが生意気を言いおって! ワシの言いなりにならぬというなら、力ずくでも奪い去ってやるわ!)
 外から自分を招いていた声、自分の親だという人物の姿をかたどって発していた声、それらの澄んだ声とはまったく異なるしゃがれた重圧感に満ちた声。光の玉は一睨みきかせてから、オズに向かって急降下してきた。

 このままでは殺される!

 そう感じたオズは、慌てて立ち上がると自分が入ってきた部屋の入り口に向かって駆け出していった。
 飛び出した自分のすぐ背後の床に光の玉が激突し、辺りに細かな瓦礫を飛び散らせる。光の玉はすぐさまそこからはい出ると、逃げおおせるオズの背中に再び狙いを向けた。
 扉のところまで辿り着いたオズは、ノブを回そうと手首をひねった。
 ガチャガチャ。
「……っ! どっ、どうしてっ!!」
 さっきは開いたのに。
 ノブはいくら回そうとしてもすぐに引っかかって止まってしまう。どうやら鍵がかかっているらしい。
 そうこうしている間に、光の玉は彼のすぐ背後まで迫ってきていた。
「ひいっ!」
 ズゥンッ!
 とっさにしゃがみ込んだオズの頭上をすり抜け、光の玉は重厚な鉄の扉に大きくめり込んだ。見上げると光の玉はなんとかはい出そうとうごめいている。オズは急いでその場から逃げ出した。
(どっ、どうしよう……どこかに逃げ道は……!)
 さっきの扉は使えない。ならば別の道を探さねばならない。オズは走りながら、広大な広間の至る所に目を向けた。すぐに扉らしきものはいくつか見当たる。
(……どの扉なら開いてる!?)
 先程のようなことを二度、三度と続けられるはずがない。それまでにきっと捕まってしまうだろう。だとしたら開いている扉を早く探し当てなければならない。オズは玉座の後方にある扉に目をつけると、そちらに向かって一目散に駆けていった。
「お願いだっ、開いてくれっ!」
 扉に辿り着いたオズは、祈るような気持ちでノブを回した。

 ガチャガチャ……

「そっ、そんな……!」
 開かない。オズは喉が張り裂けるような声で叫びながら何度もノブを回したが、やはり開く様子はない。
 そして光は再び彼の背後まで迫ってきていた。

 ズンッ!

 オズはどうにか光の突撃から身を逸らすと、すぐに次なる扉に向かって駆け出した。
(おのれ、ちょこまかと……!)
 忌々しそうに言い放ってから、光は一度不気味に輝くと、先程までより速度を上げてオズに迫っていった。ぐんぐんとオズの背中が近付いていき……
「ぐぅっ……!」
 光がオズの身体を捕らえた。強烈な重圧とともに呼吸ができなくなり、オズが白目を剥いてうめき声を上げる。その間に、光は背中からオズの中へと少しずつ入り込んでいった。
「……っ、うわああああぁぁぁぁぁぁっ!!」
 青白い光がオズの全身を包み、押し潰すような閉塞感が彼を襲う。オズは肺に残っていた空気を全て絞り出すかのように大きな悲鳴を上げた。
 するとオズの全身を取り巻いていた光が方々に乱れ飛び、部屋全体が大きく揺れ始めた。
 大小様々の瓦礫が宙を舞い、玉座は根こそぎなぎ倒され、崩れかけていた彫像が細かな破片に砕け散る。
 その部屋の中央で立ちつくすオズは、胸をかきむしるようにして自分の中に入り込もうとしている「何か」に必死に抗い続けた。

 

 まず窓の外からまばゆい光が差し込んできた。
 初めは雷かと思ったが、その直後から突然辺りが大きな揺れに見舞われだした。
「きゃあっ!」
「なっ、何ねや!?」
 城内を捜索していたフレイ達はバランスを崩し、アネットについてはその場で尻餅をついて転んでしまった。
 それからも揺れは収まるどころか少しずつ激しさを増していく。
「自然現象じゃないみたいだぞ……もしかしたらこの城内で何かが起こってるのかもしれない!」
「だとしたらオズ君が……!」
「急ごう!」
 三人は互いに頷き合ってから、ともすれば弾き飛ばされてしまいそうな揺れに逆らって走りだした。
 だがオズの姿を探そうにも城内はとても広く、加えてこの揺れの中でもたびたび敵に襲われるので思うようにいかない。
 そして、何度も倒れそうになる状況をくぐり抜け、彼らはその扉を開いた。
「うわっ!」
 扉を開け放った瞬間、中から言いしれぬ圧力が押し寄せてきてフレイは思わずよろめいた。
 途方もない広さを誇る玉座の間、その中央で棒立ちになったオズが不気味な色彩の光に包まれている。
「なっ、何だ、あれは!?」
 彼の頭の上には青白い光が不気味な形相をする顔をかたどっており、オズは苦悶の表情を浮かべながらその顔から逃れようと抗っている。
「オズくん!」
 それを見ていてもたってもいられなくなったヴァレアが広間の中へと駆け込んでいく。
「ヴァレアさん!」
「危険ですよ!」
 二人が慌てて引き止めようとするが、ヴァレアはもはやオズの近くにまで駆け寄ってしまっていた。仕方がないので二人も彼女の後を追いかけて広間の中央まで走って行く。
「オズくん! なあ、オズくん! 大丈夫ねんか、なあ!」
 ヴァレアが気付けの言葉をかけて手を伸ばそうとする。
「あいたっ!」
 だがその手はオズの周囲を取り巻く光に触れると、バチッと激しい音を立てて弾かれてしまった。まるで指が裂けてしまうような鋭い痛みに、ヴァレアは手を押さえて悲鳴を上げた。
 だが、そうしたことで相手の気が引けたらしい。オズはゆっくりと三人のいる方へと顔を向けてきた。
「あ……ぐ、う……」
 陸に打ち上げられた魚のように何度も口を開閉させながら、オズはうつろな目で何かを訴えかけようとしている。
「何だ? 何が言いたいんだ!?」
「ねえオズ君、何があったの!?」
 フレイとアネットの二人が苦しそうなオズに尋ねかける。だが声は別のところから返ってきた。
(主らは……何者じゃ……!)
 頭の芯から鳴り渡り腹の底を震わせるような重苦しい声。三人の背中に一様に寒気が走る。
「誰だっ!?」
(……去れ! 去らねば……殺すぞ……!)
 声の重圧に加えて圧倒的な殺気が三人を押さえつける。アネットとヴァレアが顔色をなくしてその場にへたり込む。気丈に立つフレイも、こうして身体を支えているだけで精一杯である。
「……くっ……! この子を置いて去るものか! この子をどうするつもりだ!」
 恐怖心を振り払うようにフレイが怒声を上げる。
(おのれ……主らも、ワシの邪魔をする気か……! ならば、主らから始末してやるわ……!)
 すると、オズを取り巻いていた光の動きが変わった。光はオズの胸の中心に集まって一度強く瞬くと、大きな球体となって彼の頭上に浮かび上がっていった。
 じっとその様子を眺めていたフレイは、不意に鋭い気配を感じると盾を取りだして胸の横に構えた。

 ガッ……!

「ぐあ……っ!」
 直後、彼の左腕に墜落する巨石でも当てられたかのような強烈な衝撃が走り、彼の身体が大きく横へと弾き飛ばされた。
「ぐ……ごほ、っ……!」
 左腕から感覚が消え、抑えきれなかった衝撃が胸の痛みとなって彼の心肺を圧迫する。フレイは何度も咳き込んで立ち上がろうとするが、強烈な痛みと先程まで押さえつけられていた殺気の余韻のせいで、膝を立てるのが精一杯である。
「オズ君、どうしたの!?」
「何してんねや、オズくん!」
 驚愕に満ちた二人の声がする。
 ようやく痛みが引きかけたのでフレイはよろめきつつも立ち上がって、先程まで自分がいた所を見た。
「……っ!」
 そこではオズが戦闘の構えを取ってこちらのことを睨みつけていた。彼の目は光を失い、全身を包んでいる淡い光が漂うオーラのように見える。
「ね、ねえっ、オズ君、っ!」
「危ないっ!」
 オズの様子を案じて近付こうとしたアネットに、オズが強烈な蹴りを放つ。
「くあ……っ!」
 咄嗟にヴァレアがその間に割り込み、組んだ両腕でその蹴りを受け止める。だがその威力が大きいのだろう、ヴァレアが微かに苦悶の呻き声を上げる。
 フレイはすぐさま駆けつけると、まだ危険な場所にいるアネットの身体を抱えてオズの側から少し離れた。
「お兄ちゃん……」
「今のオズ君は正気じゃない! あれを見て分からないか?」
 フレイが目を向ける先にアネットも目を向ける。その先でオズとヴァレアが激しい肉弾戦を繰り広げている。ヴァレアの動きもすごいと思ったものだが、オズの動きはそれに輪をかけて切れがある。小柄なその身体は敏捷さに富み、ひと瞬きする間に突きが蹴りが二度三度繰り出される。防戦一方のヴァレアも相手がオズだから動きにくいというわけではなく、本当にその攻撃を防ぐだけで精一杯のようである。
「……で、でも、そうだとして……それじゃあ私達はどうすれば……!」
 到底自分達があの中に入っていけそうにはない。だからといってこのままじっと見守り続けるわけにもいかない。この様子では遠からずヴァレアは打ち倒され、次なる照準がこちらに向けられるに違いない。
 そこでふっとフレイは目線を上に上げた。それにつられてアネットも顔を上げる。
「……あれは……」
 オズの様子が豹変する直前に彼の身体から飛び上がっていった光の玉がある。光の玉はぎらぎらと、まるで臓器が脈動するように明滅を繰り返している。その様子がすぐしたのオズの動きに被さって見える。
「もしかして……」
 アネットが一つの考えを思いついて声を上げる。フレイも黙って小さく頷いた。
「試してみる価値はあるな……」
 そしてフレイは腰の鞘から剣を抜いた。そして力を振り絞って踏み込むと、光の玉に向かって駆けつけていく。
(……っ!)
 その様子を光の玉の方も察知したらしい。少しだけ後方にさがると、くるりと反転して浮かび上がる顔をフレイに向けた。
(……寄るでない! ギラ!)
 突然、フレイの周囲から火の手が上がる。火は瞬く間にフレイの服に燃え移り、彼の全身が炎を立てて燃え始めた。
「うわああああっ!」
「お兄ちゃん!」
 フレイはもんどり打って倒れ、床の上で全身をこすりつけるように転げ回る。炎は消えたが、フレイは火傷だらけの無惨な姿になり果ててしまっていた。
「……っ!」
 だが、その挙動がオズの動きに大きく影響を与えた。ほんの少し彼の動きが鈍った瞬間に、ヴァレアはオズに組みついて床に押し倒すと、逃げ出されないようにと彼の手足を複雑に絡めて押さえ込んだ。
「フレイ君、大丈夫ねんか!?」
 ヴァレアがまだ床の上で倒れているフレイに声をかける。するとフレイは剣を支えにして、よろめきながらも立ち上がった。
「は、はい……なんとか……」
「オズくんはあたしがこうして押さえてんから、その間に……っ!」
 オズが自分を押し退けようとする力が大きくなったので、ヴァレアは押さえ込む手足に全力を注ぎ込む。
「はい!」
 フレイは再び剣を構え直し、どうにか手を伸ばせば届く高さで輝いている光の玉に目を向けた。
(……なんだ、その目は。また火だるまになりたいのか?)
「くっ……!」
 フレイは悔しげに奥歯を噛みしめた。確かに先程のように斬り込んでいったとしても、また呪文の攻撃を受けるに違いない。呪文を防ぐ方法がなければどうにもならないだろう。
 剣を震わせフレイが思慮しているその時、彼の周囲に風が巻き起こった。
「バギ!」
 次の瞬間、風は無数の荒れ狂う刃を持った一陣の突風となり、浮遊する光の玉に襲いかかっていった。風の刃は光の玉を捕らえると、その周囲で何度も旋回をして駆け抜けていった。風が通り抜けた直後、光は微かに弱まりまたすぐさま元の明るさに戻る。
「お兄ちゃん! 私が援護するから、今のうちに!」
 すぐ後ろでアネットの声がする。いつの間にか近寄ってきていたらしい。フレイはひとつ頷くと、剣をしっかりと握って光の玉に向かって駆けていった。
(ググ……お、おのれ……!)
 どうにか気を持ち直した光の玉が、フレイに顔を向けて怪しく瞬く。
「バギ!」
 そこへ再びアネットの呪文が襲いかかる。風の刃の襲撃を受けて、呪文の集中が乱れる。
(くそ、小娘が……生意気な真似を……!)
 少し退いてから狙いを変えようと光の玉が僅かに動きを見せた次の瞬間、
「でやあああああああっ!」
 駆け寄り飛び上がったフレイの手にした剣のきらめきが光の玉を捕らえる。
(……ふん、そんなものでこのワシを……)
 余裕を持ってそれを受け入れた光の玉が真っ二つに分断される。フレイが振り下ろした剣の奇跡に、微かな白い光の残像が残る。
(ぐギャアアアァァァァァッ……!)
 おぞましいばかりの悲鳴が周囲に響き渡る。
(な、何故だ……何故、このワシが……)
 切り裂かれた光の玉から無数の細かい光の粒が散らばり、急速に明るさが失われていく。
(……お、おのれ……このまま散ってゆくくらいならば……そやつも道連れにしてやる……!)
「きゃあっ!」
 突然、これまでよりも断然強い力でヴァレアの身体が弾き飛ばされる。ヴァレアを弾き飛ばしたオズの手に突然、赤黒い血に染まった儀式用の銀のナイフが現れると、オズはそれを両手に握り直し自分の胸に突き立てようと頭上に振り上げた。
「オズ君!」
「駄目やあっ!」
 制止の声が虚しく響き、ナイフが振り下ろされる。ほとばしる鮮血を見届け、満足したかのように光の玉は虚空へと消え去っていった。
 光の玉が完全に消える直前にまばゆい光がその場から溢れ出し、その光は広間全体を真っ白に染め上げていった……

 

「……うっ……」
 光が収まってすぐ、フレイは目を開けてオズのいた場所に視線を向けた。
 床が一面真っ赤に染まっている。そしてその中央には……
「……!! アネット!」
 フレイは驚愕に目をむき、急いでその場に駆け寄っていった。
 オズと折り重なるようにして倒れているアネット。その背中にはオズの手にしたナイフが深々と突き刺さり、おびただしい量の血がとめどなく噴き出している。
「おい、アネット! アネット!!」
 何度か呼びかけるがアネットの瞼が開かれる様子はない。そうしている間に、彼女の顔色から少しずつ血の気が失せていく。
「くっ……!」
 フレイは床に投げ捨てられていたアネットの荷物から応急処置用の薬と包帯を取り出すと、それで急いで彼女の手当てを始めた。だが所詮応急処置のための道具、これで処置したところで状況は少しばかりしか変わらない。彼女のように傷を癒やす力を彼が持っていない以上、早急に医療的な措置を施さなければならない。
(くそっ、アネットのヤツ、なんて無茶なことを……!)
 恐らくは自殺しようとしたオズを押さえようと駆けつけたのだろう。彼女の優しさが仇となり、今こうして彼女の命を奪おうとしている。フレイは忌々しげに妹の背中に突き立てられたままのナイフを睨み据えた。
「アネットちゃん!」
 ヴァレアも気が付いたらしい。悲鳴を上げて、倒れるアネットの側に寄り添ってくる。
「ど、どうしてこんな……!」
 あまりの衝撃にヴァレアの声が震えている。
「多分、オズ君をかばったのかと……」
「と、とにかく、早く村に連れて帰らんと……!」
「……ええ。ところでヴァレアさん、オズ君の様子は……?」
 アネットを背負い、フレイは視線を下ろした。オズは悪夢にうなされているかのような苦悶の表情を浮かべたまま、眠るように床に倒れたままである。ヴァレアが何度か揺すってみるが、起きる様子は見当たらない。
「……駄目や。気を失ってるんだけねんやとは思うけどな……」
「そうですか。それじゃあオズ君も一緒に……ん?」
 フレイは視界の片隅に動くものを見つけて、そちらに目を向けた。
「どうしたんねや、フレイ君?」
 ヴァレアも同じ方へ視線を合わせる。
 広間の片隅で、柄の悪そうな二人組の男が荷物を手に歩いている。
「おい、お前達!」
 フレイが声をかけると、向こうもこちらの存在に気付いたらしく、顔を向けて「しまった」といった表情をした。
「あんたら、こんなとこでなにやってん!? その手に持ってるのは何ねや!?」
 二人組の荷袋の端からは、明らかに高価そうな宝飾品などが微かに見えていた。二人は互いに向き合って頷くと、腰からナイフを抜き放った。
「ちっ、見られちゃしょうがねえな。なあお前さん達。俺達のことは黙っちゃくれれねえか? そうすりゃ、お互い余計な痛い目にも遭わずに済むぜ?」
 二人のうち太い身体の男がナイフをちらつかせて交渉してきた。
「何言ってんねや! あんたらが持ってんねはこの城の宝物ねんやろ! そんな泥棒じみたマネを許せるとでも思ってん?」
 ヴァレアが巨体の男に向けてたんかを切る。男達はもう一度顔を見合わせると、ナイフをもう一度握り直して下卑た笑いを見せた。
「じゃあしょうがねえ。お前さん達にはちょっと痛い目にあってもらわにゃならねえな」
 じりじりと二人が近付いてくる。ヴァレアはフレイの前に立ちふさがるように歩み出た。
「フレイ君、ここは私一人に任せて、あんたはアネットちゃんを連れて先に帰ってき」
「そ、そんな! 一人じゃ無茶ですよ、ヴァレアさん! それにオズ君は……」
「いいから早く! もたついてるとそれだけアネットちゃんが危なくなるんねよ!」
 フレイはどうしたものかと迷い、呻き声を上げた。確かにヴァレアの言うことももっともだが、かといっていくら彼女でもナイフを持った男二人に立ち向かって無事に済むわけがない。
「ヒャド!」
 その時、広間に声が響き渡ったかと思うと、巨体の男が持つナイフが凍りつき根元からこそげ落ちた。
「誰だ!?」
 全員の視線が声のした方に向く。
「バティ!」
 そこにいたのはバティだった。バティは手にしたかぎ爪付きロープを腰に収めると、屈み込んでいた窓の上から勢いをつけて一気に飛び降りてきた。
「何だよ、バティ。着いて来てたのか!?」
「当たり前だろ、あのままほっとけるかよ。ほら、お前は早くアルカパに戻ってろ! ったく、俺がいないと何にもできねえんか、お前らは?」
「よく言うぜ。でも、ありがとな!」
 フレイはバティに礼を言って広間から駆け出していった。
「あっ、待ちやがれ!」
 それを細身の男が追いかけようとする。
「ヒャド!」
「うひいっ!」
 そこへバティが呪文を唱えると、現れた氷の矢が男の身体をかすめて飛び抜けた。たまらず男がたたらを踏む。その間にフレイ達の姿は広間から消えていた。
「へっ、バーカ! 業界に名高いビッグ様とスモック様も、大したことねえな!」
「なっ、なんでやんすと!?」
「お前、俺達のことを知ってやがるのか! くそ、同業か……! だったら尚更生かしちゃおかねえ!」
 バティの挑発に二人がいきり立つ。これで少しでも理性を失ってくれれば、さばくのも楽になるだろう。
「おい、ぼーっと見てないで早く行けよ、お前は!」
 バティがヴァレアのことを急き立てる。
「分かってんよ! なあ、バティ」
「何だよ?」
「さっきのあんたな、かっこよすぎて似合っとらんかってん」
「余計なお世話だ! だから早く行けっての!」
 バティの少しばかり照れた様子に笑みを浮かべると、ヴァレアは二人組の男達に向かって駆け出していった。

 

 目を覚まして最初に飛び込んできたのは、セピア調の壁紙が貼られたきれいな天井だった。
「…………私……」
 身を起こそうとした瞬間、背中から全身を突き抜けるような劇痛が走ってうずくまる。
 自由に動かすこともままならない身体を揺すらせて、彼女は自分と周囲を見渡した。
 旅装束であったはずの着衣はパジャマに変わっており、景色も荒城の大広間から、今自分が横になっているのと合わせて二台のベッドが並べられた小さな部屋になっている。
 少しだけ開け放たれた窓からは、ささやかな風と共に賑やかで楽しげな人のざわめきが聞こえてくる。
 自分のベッドの片隅には水桶と濡れたタオル、そして包帯と薬袋が置いてある。

 ああ、そうか……

 彼女はそれを見て気を失う直前のことを思い出した。
 ナイフを振り上げ死のうとしていたオズをかばって彼の元に飛び込んでいった。そしてすぐに背中に痛みが走り、目の前が真っ赤に染まって、そのまま気を失っていったのだ。背中の痛みは、恐らくナイフが刺さったためのものだろう。真ん中から少しだけ左に寄った、胸の後ろ側当たり。ほぼ急所に近いところだ。

 ……私、助かったんだ……

 相当ひどい怪我だったに違いない。あの時の状況から考えると、今こうして生きていることがとても不思議にすら思える。
「せえやってん、あたしがちゃんと診たってんねから、あんたはしゃしゃり出て来んとでもええんね!」
「何だよ! 俺はただ好意でやってやろうとしているだけじゃないか! どうしてそこで突っぱねんだよ!」
「ええんねから! あんたはどっかに行き!」
「うおっ!」
 ドタン、と音がして少しだけ揺れたかと思うと、部屋の扉が開かれた。
「あっ……」
 先程のやりとりで誰が入ったのかは見当が付いている。
 部屋に入ったヴァレアは、横になって自分を見ているアネットに気付いて目を見開いた。
「なんや、アネットちゃん目覚ましたんか。こりゃびっくりやー。いやー、よかってん」
「え、目を覚ましたって!?」
 廊下で倒れていたバティが素早く身を起こすと、ヴァレアの横を軽快にすり抜けてアネットの元に駆け寄ってきた。
「あっ、こら!」
 ヴァレアが怒って叫ぶが時既に遅し。
「よ、よかった……あのままずっと目を覚まさないんじゃないかとヒヤヒヤしてたんだぜ!」
「え……あの……えっと……」
 早口であれやこれやとまくし立て始めるバティ。まだしっかりと立ち直っていないアネットは、ただうろたえるのみである。
「……お?」
 バティの喉元をヴァレアが片手でつかみ上げる。そしてヴァレアはそのままバティの体を引きずって部屋の外へと歩いていった。
「おっ、おい、何するんだよ! いててててっ……こら、痛いだろ、離せ!」
「あー、うるさい! これからアネットちゃんの包帯取り替えるつもりでいるんねから、あんたはとっとと出てき!」
 やかましく騒ぎ立てながら扉の所まで行き、そこでヴァレアはバティのお尻を蹴って外に追い出した。
「いてっ! てめ、なんてことしやがる!」
「うるさい。あんたはバザーにでも行っとき。絶対中に入って来んでよ」
 ヴァレアは顔を近づけて脅すように言うと、扉を閉めて鍵をかけてしまった。
「あっ、こら! 鍵までかけるか、おい!」
 扉を叩いてバティが騒ぐ。だがそんなことなどそ知らぬふりで、ヴァレアはアネットいるベッドへとやってきた。
「あ、あの……」
「気にせんでもええんよ。あれにはあのくらいがちょうどいいんね」
「い、いえ、そうじゃなくって……」
「さ、包帯取り替えるよ。アネットちゃん、一人で起き上がれる?」
「いえ、ちょっと……」
「せか」
 アネットはヴァレアに支えられてゆっくりと半身を起こした。少し動くだけでも痛みが走る。アネットの身体を起こすと、ヴァレアは彼女のパジャマを脱がせ、少しだけぎこちなさの残る手つきで包帯を解いていった。
「あの、私は……」
 その途中でアネットはヴァレアに尋ねた。
「ああ。大ケガしたんよ、オズくんをかばって。でも大した生命力やな、あれだけのケガしてこうして助かってんねやから」
 ヴァレアはアネットが気を失ってからの出来事をつぶさに話し始めた。
 ビッグとスモックという二人組の遺跡荒らしに遭遇したこと。ケガをした自分を背負わせてフレイだけ先に帰し、二人組は駆けつけてきたバティとヴァレアの二人で叩きのめして連行したこと。
「でな、そいつらが持ってた宝物ん中に、オズくんが持ってたんと同じ紋章があってんよ。細かいことは今調査をしてるから分からんねやけどな。やっぱりオズくんはあそこの王侯貴族ってことで間違いなさそうやね。……あっ、随分傷口も塞がってきてるわ。ホント見上げた生命力や」
「は、はあ……」
「今から薬塗るから、ちょっとしみるけど我慢してな」
 ヴァレアは塗れタオルでアネットの背中を拭き、軟膏を指につけてアネットの背中にすり込み始めた。言われた通りかなりしみたので、アネットは固く目を閉ざしてその痛みを懸命にこらえる。
「はい、終わり」
 ヴァレアは薬を塗り終わった指を拭くと、新しい包帯を手にとってそれをアネットの身体に巻き付け始めた。痛みが治まってほっと一息ついてから、アネットはヴァレアに尋ねかけた。
「ところで、そのオズ君は……」
 アネットはただそのことが気がかりだった。自分が飛び込んでいって果たして助かったのだろうか、助かったのだとしても、あのただならぬ様子からいったいどうなったのだろうか。
「ん、オズくん? なんも無かったかのように元気に走り回ってるよ。今ちょうどバザーやってん、もうはしゃいではしゃいで。フレイ君に見てもらうようにお願いしてんねやけどな、毎日へろへろになって帰って来んねよ」
 ヴァレアが包帯を巻く手を止めて笑い始めた。駆け回るオズをただ追いかけることだけに終始している兄の姿をちょっとだけ想像してみて、アネットの口元からも笑みがこぼれる。
「あ、でもバザーって……?」
 中止になったんじゃないのか、と思い尋ねようとすると、ヴァレアがすぐさま答えを返してきた。
「ああ、日程をずらして再開してんよ。大臣からおふれが出たり城の騒動が波及してきたりして仕方なく見合わせとってんねやけどな。まあみんなでうさ晴らしでもしたかってんのかもな」
 包帯を巻き終えアネットにパジャマを着せてから、ヴァレアが後片づけに取りかかる。「そうですか」
「なに、アネットちゃんも行きたいん?」
「い、いえ、そういうわけじゃ……あいたた……」
 慌ててアネットが両手を振ろうとしたが、背中の痛みを覚えてその場にうずくまる。
「ま、行きたくてもそのケガじゃ無理やね。アネットちゃんはしっかり休んでケガを治すことを第一に考えとき」
「はい……」
 頷くアネットが少しだけ残念そうな表情をしたかのように見える。
「まあそんな残念そうな顔せんと。あんないいお兄ちゃんもおるんねやし、きっと大丈夫ねんよ」
「え、ええっ!?」
 突然のことに驚いて目を丸くする。それを見てヴァレアはまた笑い出した。
「あっはは……ほんとに仲のいい兄妹ねんやな」
 アネットが顔を赤くしてうつむく。
「でもあれだけいいお兄ちゃんを持ってて、アネットちゃんは幸せものやね」
 ヴァレアが少しだけ寂しそうな顔をする。少しだけ、二人の間に沈黙が漂う。
「ヴァレアさんは……」
「うん?」
 何かを言い出そうとしたアネットだったが、ヴァレアの表情を見て言葉が出なくなってしまった。
「……いえ、何でもないです」
「せか。まあアネットちゃんもまだ起き上がったばっかりやってん、しっかり寝て体力を回復させとき」
「はい」
 ヴァレアに寝かしつけられアネットは軽く目を閉じた。アネットの寝息が聞こえてきたので、ヴァレアはそっと静かに部屋を後にしていった。

 

 アネットの傷が癒え完全に体力を取り戻すまでのひと月の間フレイ達はアルカパの町に滞在した。
「ほんとに行っちゃうねんか、寂しいな」
 装備を調えて旅立つ三人を見送りに来たヴァレアが名残惜しそうに言った。
「はい。俺たちには行かなければならないところがありますから」
「エルヘブン、やったっけ? でも船が出ないんねやろ? これからどこに行くつもりなん?」
「とりあえず、もう一度ビスタに行って船が出るようになったか確認してから、もし出ないようでしたらラインハットに行こうかと思っています」
「何や、直談判でもしに行く気?」
 ヴァレアの問いかけにフレイはしっかりとした面持ちで頷いた。
「もしかしたら、そうなるかもしれません」
「そっか……ま、あんたらのことやってん、大丈夫やろ」
 別れ際の話をしている二人の横で、先程からアネットがせわしなく体を動かしている。
「どうした、アネット? さっきから落ち着かないな」
「え? うん、オズ君は見送りに来てくれないのかな、って思って」
 それを聞いて三人の表情が少しだけ陰りを見せる。今朝早くからどれだけ探してもオズの姿は見つからなかった。もしかしたら、旅立っていってしまうフレイ達のことを怒っているのかもしれない、彼らは一様にそう思っていたのだった。
「ま、まあ、いつもみたくちょっとへそ曲げてるだけやってん、きっと。せえやからあんたらは気にせんとき」
「でも……」
 顔を上げたアネットの視線の先から、誰かがこちらに向かって走ってきているのが見えた。不意に言葉を失ったアネットにつられて、残りの三人も同じ方を見やる。
「おーい、ちょっと待ってよー!」
「あれは……」
「オズ君!」
 通りの向こうからオズが懸命に走ってきていた。そのオズの格好は、着ている物といい背負っている荷物といい、これから旅に出るかのようである。
「ちょっと、オズくん! 何やね、そのかっこ!」
「旅に出るんだろ? だったらぼくも連れてってよ!」
「ええっ!?」
 全員が驚きの声を上げる。
「いきなり何言い出すんねや! あんた、自分で何言ってんのか、分かってんねか?」
 慌ててヴァレアがオズを問いただすが、オズはさも当たり前のようにひとつ頷いた。
「ヴァレアお姉ちゃん、ぼく本気だからね! ちゃんとおばさんにも言って許してもらってきた」
「でも、いきなりどうして……!?」
「アネットお姉ちゃんを守ってあげるんだ!」
「は?」
 誰もがあ然となり、二の句を継ぐことができない。
「だって、アネットお姉ちゃん、ぼくのこと体を張って守ってくれたじゃないか。だったら今度はぼくがお姉ちゃんを守ってあげる番だよ」
「あ、あれはあ、その……」
「……気に入られたな、アネット」
「あうぅ……」
 人ごとのようにフレイが言い放つと、アネットは居心地が悪そうに視線をさまよわせた。
「それに!」
 オズはいきなり叫んでフレイに詰め寄ってきた。
「ヴァレアお姉ちゃんに聞いたぞ! お前、アネットお姉ちゃんを邪魔者呼ばわりしたそうじゃないのさ! これからはぼくが着いていくから、絶対にそんなことは言わせないぞ!」
「あのなあ、『お前』はないだろ、『お前』は! 仮にも俺はこいつの兄貴なんだぞ。こいつのことが気に入ってるんだったら俺のこともちゃんと名前で呼んでくれよ」
「ちょっとお兄ちゃん! それを言うんだったら私のことを『こいつ』呼ばわりしないでよ!」
「うっ……」
 前から後ろから敵意の目にさらされてフレイがたじろぐ。仕方なしにフレイは肩を落としてため息をついた。
「……もういいよ、勝手にしてくれ……。でも、ちゃんとヴァレアさんにうかがいを立ててくれよ」
「ヴァレアお姉ちゃん……」
 オズが懇願するような目でヴァレアのことを見上げる。ヴァレアは助けを求めようと三人に視線を向けるが、全員がそれを避けるように視線を逸らしている。
「……い、行っても、ええよ……」
「ほんと!? やった!」
 明るい顔でオズが飛び上がる。
「ヴァレアさん……」
「……しょ、しょうがないやん。ここで『ダメ』言ったら、あたしが悪者になるんねよ。それに、オズくんをここに引き止めようとしたって、どうせいつぞやみたいに無理矢理飛び出して追っかけるだけやろし……」
「すみません……」
 フレイとアネットは深々とヴァレアに頭を下げた。
「おい、もたもたしてないでさっさと行こうぜ」
 それまでずっと背を向けていたバティが、あくび混じりにそう言ってフレイ達を急かした。
「分かってるよ。それじゃあヴァレアさん、今までお世話になりました」
「気にせんとええね。あと、こっちはこっちでオズくんのこといろいろと調べてんから、また戻ってきたってな」
「はい」
「んなこと言って、本当は淋しいんじゃねえのか? 『行っちゃイヤ〜』ってな」
「あんたは戻ってくんな」
 皮肉った言い方で茶化すバティに、ヴァレアが無愛想にそう言い捨てた。フレイがその様子を見て小さく笑う。
「さあ、行こうか。それじゃあ。ヴァレアさんもお元気で」
「頑張ったってよ。あと、オズくんのこと、お願いな」
「はい」
 そうしてフレイ達は、ヴァレアの見送りを受けてアルカパの町から去っていった。

 

 初夏の風を受け、微かに黄色く染まった草原が優しく揺れる。風は、ほのかに海の香りを乗せ、暑くなりかけた時候の熱気を冷ましてくれる。
 アルカパから少し行った所。豊かな山吹色の背景を背に、アネットがすぐ後ろを行くバティを振り返った。
「ねえ、本当はバティ君の方が淋しかったんじゃない?」
 いきなりのアネットの発言に、バティが面食らったような表情になる。
「な、何を言い出すんだよ、いきなり!」
 うろたえるバティに、アネットが明るく笑いかけた。
「だってバティ君、アルカパにいる間ずっとヴァレアさんと仲良くしてたじゃない。私達が話している間、ほとんどこっちの方を向こうとしなかったし……照れ臭かったんだよね、きっと」
「ばっ、バカ言うな! 大体、俺とあいつのどこが仲がいいってんだよ! 目がおかしいんじゃないのか?」
 バティが慌てて取り繕おうとするが、アネットはただ笑うだけでまともに取り合おうとはしない。
「もっ、もういいから、早く前を向け! 後ろ向きに歩いてると危ないぞ!」
「はあい」
 バティに言われて、アネットは素直に返事をして前に向き直した。
(……明るくなってきたな、アネットのやつ。フレミーノを出る前のあいつが、戻ってきたみたいだ……)
 アルカパでの出来事が、少なからずアネットの心によい影響を与えたのだろうな。
 地図を手に先頭を行っていたフレイは、そう思うと一人密やかに微笑みを浮かべずにはいられなかった。

第3章 終

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