第4章

 彼は場内の見張りを済ませ、兵舎に戻るべく暗い通路を歩いているところだった。
 初めは彼も、憧れていた城の兵士という職に就くことができて、嬉しさと喜びにあふれ職務に励んでいたのだが、近頃は少しマンネリ化してきたその職務を退屈と思うようになり、自ずとそれが態度に現れるようになってきていた。今日の見張りも、ところどころで手抜きをしている。確かに、八年も同じ職務を続けていれば飽きのひとつも来ようものだが。
「おや?」
 彼が中庭に出ようとした時、その手前にある扉の向こうから明かりが差しているのに気付いた。中庭の手前といえば、台所のある場所である。遅番の誰かが食事でもあさりに来たのだろうか、そう考えた途端自分のお腹もなり出したので、彼はつまみ食いに混ぜてもらおうと半開きの扉に手をかけた。
「おい、こんなところで何をしている」
 一応見張りという面子上、注意をしながら彼は扉を開け中に入った。
 そこで彼が見たものは……
「ひぃっ……!」
 彼は目の前に現れた光景に驚き、悲鳴を上げて尻餅をついた。
 台所の奥で、得体の知れない何ものかが何かを貪り食っていた。その傍らには明らかに人間のものと分かる腕が、肘から先の部分で切断されて横たわっている。化け物が牙の生えた口を動かすたび、くちゃくちゃと気味の悪い音が聞こえてくる。
 逃げなくては、彼はそう思ったが、すっかり腰が抜けてしまい、立つことすらできずにいた。震える彼の手が立てかけてあったモップに触れ、それに押されて壁のフライパンがけたたましい音をたてて床に落ちた。
 その音で化け物が彼に顔を向けた。突き出た化け物の口の周りには、真っ赤な血と肉片がこびりついている。
 化け物は一歩、また一歩と、動けない彼の元に近付いてくる。
「ひいっ! くっ、来るな、来るな!」
 彼は腰の剣を抜き、それを振り回しながら化け物を追い払おうとした。しかし、化け物は彼の懇願を無視して、徐々に近付いていき、あと少しというところまで近付いたところで、一気に床を蹴り上げ飛びかかっていった。
 彼の悲鳴は、ほんの一瞬だけで、城の中の平穏は崩れることがなかった……

 

 

 

 夏が近付いてきて、広い大地に生える草たちの色も次第に濃さを増してきている。吹き抜ける風はほんのりと暖かく、そしてどことなく甘く香しく思われてくる。
 しかし、あと一月もするとこの辺りは雨の降りしきる季節になる。雨に見舞われては旅も自ずとはかどらず、加えて思わぬ危険に出くわす可能性が出てくるので、今この時期に目的の場所に辿り着こうと旅路を急ぐのが、旅慣れた者の間では常識になっている。
 だがしかし、ここ最近になってその常識が崩された。
 言うまでもない、魔物の凶暴化である。
 魔物はこの時期に人間が多く旅をするのを知ってか知らずか、待ち伏せをして旅人を襲い所持品を強奪することを頻繁に繰り返すようになった。今年も、実際に調査されたことはないが、かなりの数の旅人が魔物の犠牲になっているという。
 とはいえ、魔物も雨の多い時期は静かにしていることが多いので、最近は雨の多い夏に旅をするのがいいと言われるようになった。
 しかし、先を急ぐ者にとってはそうも言っていられない。
 フレイたち四人は、魔物の多い中を強引に突き抜けてラインハットへと向かっていた。
 アルカパからここまでで既に何度襲われたか数える気にもならない。初めの頃は戦うのを嫌がっていたアネットも、今では大きな樫の杖を手にしてフレイたちの援護をしている。
 フレイが自分の身長の一・五倍はある大きさのグリーンワームを切り裂いて、長かったこの戦闘もようやく終わり、四人はほっと一息をついた。
「まいったな、ラインハットに着くまでにあとどれだけ戦えばいいんだよ」
 バティが草の上に腰を下ろし、空を見上げてぼやいた。
「そうぼやくなよ。あと少し行けば関所があるんだろう、そこに着いたら二・三日休むとしよう」
 フレイは、自分もうんざりして値を上げてしまうのを抑えながら、座り込んだバティの手を取って彼の体を引っ張り上げた。
「やれやれ、何でこんなのに着いていくって決めちまったんだか」
「嫌だったら別に着いてこなくてもいいんだぞ」
「馬鹿言え、一度決めたんだ、おめおめと引き下がれるかって……あっ!」
 バティはフレイの体を押しのけ体を前に傾けた。何事かと思ったフレイが振り向くと、少し離れたところでアネットとオズが向かい合って座っているのが見えた。
「おい、あんまりのしかかってくるなよ、重いだろうが」
 文句を言うフレイを突き飛ばし、バティはその場へと駆けつけた。
「はい、これで大丈夫。もう怪我は治ったわよ」
 アネットが先程まで傷のついていたオズの左腕をさすった。しかし、傷が治ってもオズは下をうつむいたままかわいらしい声でただうめいている。
「どうしたの? まだ他にケガをしてるところがあるの?」
 心配そうにアネットが声をかけると、オズは首を左右に振ってから顔を上げた。
「そうじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
「僕がお姉ちゃんを守るって決めたのに、こうやってお姉ちゃんに助けてもらってばっかりいるから……」
 気落ちした様子でうなだれるオズ。しばらくその様子を見つめていたアネットは、徐ろに手を添えて彼の頭をなで始めた。
「そんなことないわよ。こうして私がオズ君のケガを治してる以上に、オズ君は私のことを危険から守ってくれているから。だからそんなに気を落とさないで」
 アネットに言われ、オズは少し表情を明るくして顔を上げた。
「本当……?」
「本当よ。だから……」
「こら」
「きゃあ!」
 アネットが言葉を続けようとしたその時、駆けつけてきたバティがオズの頭を乱暴に突き飛ばした。突かれたオズは言葉を上げる間もなく、倒れ込むようにしてアネットの胸元に飛び込んでいった。驚いた声を上げつつもアネットがそれを抱きとめる。
「なっ、何するんだよ!」
 いきり立ったオズが振り向きざまバティを怒鳴りつける。
「うるせえ! ガキはガキらしくこんなとこでムード作って話してないでサルみてーに野っ原駆け回ってろよ!!」
「なんだよ! ただ喋ってるだけのどこが悪いのさ!」
 バティの煽りに乗ってさらに昂奮したオズが彼につかみかかっていく。
「おっ、やるか? ただの力押しだったら俺だって負けねえからな!」
 そして二人は揉み合いのけんかを始めてしまった。初めは引き止めようとしていたアネットだったが、やがて何度も見てきた成り行きに収まってしまい、諦めきった顔でため息をついた。
「またやってんのか。よく飽きないな、あいつら」
 そこへ同じように諦念の面持ちをしたフレイがやってきた。
「何言ってるのよ。アルカパを出てすぐの時はお兄ちゃんがああだったじゃないの」
 アネットに指摘されてフレイが小さく呻いた。
「あ、あれはオズの方から勝手にだなあ……!」
 アルカパを発って間もない間は、オズがことあるごとにフレイのすることに食ってかかっていた。そのたびに二人は揉め合いをしていたのだが、どういうわけかここ数日は食いつくバティをオズが迎え撃つような形に変わっていた。
「……何にしても俺に噛みついてこなくなったのはありがたいが……」
 苦々しい顔をして頭を掻くフレイ。その視線の先にはまだ揉み合いをしている二人の姿が。
「二人とも、ケンカだけはやめてほしいよね」
「まったく、バティも大人げないよな。もう少し仲良くしようとか思わないのかな」
「それを言うならお兄ちゃんだってそう大して変わらないわよ。道場の子と毎日のようにケンカしては生傷作って帰ってきたじゃない」
「い、今は違うぞ! お前はどうしてそう人の揚げ足ばっかりをだな……!」
 怒ったフレイがアネットの肩につかみかかる。
 麻糸の混じった少しごわついた生地のケープに覆われた彼女の肩は、思った以上にか細かった。
 少しでも力を入れてしまえば簡単に折れてしまいそうな、そんな彼女の肩の細さを感じたフレイの言葉が、不意に止まる。
「……ど、どうしたの、お兄ちゃん……?」
 自分の肩につかみかかったまま、言葉を失くしてただじっと見つめてくる兄の様子に、アネットがひどくうろたえる。その声で我に返ったフレイが慌てて彼女の肩から手を離した。
「い、いや、なんでもない……」
 落ち着かない様子の兄を不安げに見上げるアネット。
「前から思ってたんだけど、最近のお兄ちゃん、なんか変だよ……? 何かあったの? 大丈夫?」
 しきりに言いよってくるアネット。その彼女を、フレイはぶっきらぼうに押し退けた。
「な、何でもない! 何ともないから……お前は気にするな」
 明らかに何かが変だ。アネットはそう感じていたが、小首を傾げるだけでそれ以上何も追及してはこなかった。
「お兄ちゃんがそう言うなら……」
 フレイはアネットにできるだけ目を合わせないようにしながら、いまだ揉め合っている二人の方へ顔を向ける。
「とりあえず、あの二人を早いところ止めないとな。こんなことしていたらいつまでたってもラインハットに着けやしない」
「そうね」
 アネットが頷く。二人はボロボロになりかけているオズとバティの元へ、小走りで近付いていった。

 

 旅は、まだ始まったばかりである……

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