第4章

 ラインハットの関所には人影がまったく見当たらなかった。普通ならば河の両岸にある出口に一人ずつ見張りが立っているはずなのだがそれがいない。加えて、地下道は魔物の住処と化していた。
 傷も負い気力も尽き欠けていて無駄に戦闘はしていられないと、フレイ達は逃げるように地下道を駆け抜けていった。そのおかげか、彼らは無事に対岸までたどり着くことができた。
「ふう……な、なんとか辿り着けたな……」
 最初に地下道を抜け出したフレイは、荒れた石畳の上に座り込んで大きく息をついた。
「お、お前なあ……後ろをほっぽってさっさと逃げんなよ……!」
 最後尾にいたバティのぼやき声。振り返ってみると、残りの三人が厚い扉にもたれかかるようにしてへたり込んでいた。
「あっ、悪い悪い。俺も逃げるのに精一杯だったからさ」
 あまり誠意の見えない謝り方をするフレイ。バティが潰れたカエルのように地面に寝そべり、アネットとオズの二人は青い顔でお互い抱き合って震えていた。
「こっ、怖かった……!」
「も、もうあんな所、二度と行きたくないよ……!」
 地下道には魔物の姿だけでなく、さまざまな人間の死体が転がっていた。既に白骨化していたものから、まだ血の臭いもしてきそうな新しいものもあった。フレイが先頭を切って逃げる傍ら、何やら後方でしきりに悲鳴が上がっていたが、どうやらそれはこの二人のものだったようである。
「と、とりあえず今日はもう休もうぜ。俺、もうへとへとで歩けねえよ。ここにゃ宿だってあるんだしよ」
 バティが関所の片隅にひっそりとたたずむ宿を指差した。しばらく何も言わずにそれを眺めて思案していたフレイだったが、やがて諦めたように目を伏せて頷いた。
「……しょうがないな。もう好きにしてくれよ。まだ日も高いってのに……」
「よしきた!」
 フレイが言い終わるや否や、バティは意気込んで宿に向かって駆け出していった。
「そっちは任せたぞ。俺はもう少しこの辺りのことを見て回るから」
「おう、分かった!」
 先程までとはうってかわって元気なバティの様子を見て、三人が揃って肩を竦めた。
「まったく、さっきのは一体何だったんだよ、まったく……。アネット、お前もオズと一緒に宿に行ってろ」
 フレイの提案に、アネットは首を小さく横に振って応えた。
「私も、お兄ちゃんと一緒にちょっと見て回りたい。いいでしょ?」
 思わぬ答えが返ってきて、フレイは少し呆気にとられた。
「あ、ああ……別にお前がそれでいいって言うんなら、俺は構わないが……」
 それを聞いてアネットは笑顔を見せ、両手を広げて少しばかり駆け出した。
「ありがとう! それじゃあ行こうか、お兄ちゃん」
「……ああ」
 今目の前にいるのは、幼子のように心底明るく無邪気に振る舞う妹の姿だった。それを見てフレイが戸惑いを見せる。
 故郷を出る前の彼女とも、そして出てからの彼女とも大きく異なるその姿。これだけ楽しそうに笑う妹の顔を見たのはもう何年ぶりだろうか。
「なにボーっとしてんの?」
 不意に足元から声がかかってフレイは飛び上がった。
「な、何だ、オズか」
「何だ、じゃないよ。ボーっとしてるとお姉ちゃん行っちゃうよ」
「……あ、そっか。悪い悪い……」
 慌ててアネットが向かっていった先に足を一歩伸ばしてから、フレイはオズの方に顔を向けた。
「オズはどうする? 先に宿で休んでるか?」
 するとオズは不機嫌そうに頬を膨らませ唇をつり上げた。
「どうしてあいつと二人っきりで待ってなきゃなんないのさ。僕も行くよ」
 あいつ、バティのことだろう。この様子だと相当二人の間のわだかまりは深そうだ。
 一体お互いの何が気に入らないんだろうか……フレイは心中でため息をついた。
「じゃあ早く行こうか。アネットを一人にしたら危ないしな」
 フレイはオズを促してアリシアの元へ小走りで近寄っていこうとした。
「……うん?」
 その途中、川辺の木陰に密かに人目を避けるようにしてたたずむ一人の男の姿を見かけて、彼は不意に足を止めた。
「どうしたの?」
 彼と同じようにして足を止めてオズが尋ねてくる。
「……悪い。オズ、先にアネットのところに行っててくれないか」
 言うなり彼はオズを置いて駆け出していってしまった。オズは小首を傾げつつも、言われるままフレイと別れてアネットのいる方に向かうことにした。

 日の光を受けてちろちろと川面がきらめく。
 川は至って静かで、今まで自分が歩んできた道とはまったく違う世界を感じさせる。
 別に平穏が欲しいわけではない。しかし、こうして静かな流れを見ているだけで、自分がその違う世界に飛ばされてしまったかのようなそんな錯覚すら覚えてくる。
「あの……」
 物思いにふけっている彼の耳に、声がかけられた。
 振り向けば、いつの間にか彼の元に一人の少年が来ていた。乱雑ながらもまだ丁寧に刈り揃えた跡の残る短い金髪をし、白い肌にはまだ砂塵が染みついているようには見えない。この少年は、まだ旅の途が浅いのだろう。
 だが、それでありながら少年は気配も感じさせず、人目を忍ぶようにしていた自分に近付いてきた。
 大器の予感。少しならずとも興味を覚える。
「あの、いいですか……?」
 少年は彼の態度を見て何を想ったのだろう、少しだけ物怖じした様子で再び声をかけてきた。
「ああ、すまない。少しばかり考え事をしていたものでね。それで、私に何か用かな?」
 彼はもたれかかっていた木の幹から体を離して、少年の方に身体を向けた。
「ここで、何をしているんですか?」
 奇妙な問いだ。いや、それ以上に私の挙行が奇異だったのかも知れない。彼はそう思うと、微笑して川の方を向いた。
「見ていたのだよ、川の流れをな……」
 少年は不可思議そうにただ顔をしかめるだけだった。何かを問おうにも言葉が出て来ない、そういった風体にも見える。そんな少年の様子を横目でちらりと見やって、彼は再び微笑して少年に顔を向けた。
「いや、昔この川辺に立ってそう言った賢人がいるという話を耳にしてね、私も少しばかり真似をしてみたのだが……」
 彼は微笑を浮かべたまま川面を見やった。川面は相変わらず光を受けて静かに揺らめいている。
「だがやはり私は賢人になるような資質はなさそうだ。こうして眺めていてもただ流れがあるだけで何一つ見えてこないよ」
 彼は小さく笑い軽く首を横に振った。
「は、はあ……」
 少年はだらしなく口を開いたまま、呆然と彼の言うことに耳を傾けている。一体彼が何を言いたいのか、皆目見当がつかないようだ。
 彼はさらに深い笑みを見せると、少年の頭に手をやって軽くなで回した。
「なに、分からなくてもいい。君には関係のないことだ」
 彼は木陰に置いた荷物を手にしてその場を後にした。
「では私は行くとしよう。すまないね、こんな話に足労をかけてしまって」
「あっ、あの……っ!」
 去ろうとする彼の背中に、少年が慌てて声をかける。だが彼は足を止めない。
「あの、この関所のこととか、ラインハットのこととか……あなたは何か知っていませんか?」
 ラインハット。
 その言葉を聞いて彼の足が無意識のうちに止められる。
 彼はしばらく何も言わずにその場に立ち止まり、そしてやがて徐ろに重い口を開いた。
「…………あそこへは行かない方がいい。我が身を案じるならばね」
 そして彼は再び歩いていった。
 彼の姿が消えた後もなお、少年はただじっとその場に立ちつくしているのみであった。

 

 日も暮れ、フレイ達四人は静かな宿の一室に集まっていた。
 関所はおろか、ここにも人の姿は見当たらず、この宿は打ち捨てられて寂れきっていた。
 人がいないならば勝手に使っても文句は言われないだろう、とバティとフレイの二人が主張したので、アネットとオズの二人は渋々承諾することにした。

「なんだよ、結局あれだけ歩き回って何の収穫も無しなのか? だらしないな」
 アネットの手で埃が払われたベッドに腰掛けたバティが、三人のことをあざ笑うように言った。
「なっ、何だよ! 誰もいなかったんだから、しょうがないじゃないのさ!」
 むきになってオズが言い返す。
「ほらまたそこでケンカする。いい加減やめたらどうなの、二人とも」
 アネットが錆びついた灯りの受け皿に油を差しながら二人を諌めた。そして薄暗い中で置いてあった灯心の状態を確かめる。しかしどれもが固くかびていて、とても使い物になりそうにはない。仕方なくアネットは腰のポシェットから新しい灯心を取り出して受け皿に差し、ほくちでそれに火をつけた。暗かった室内がほのかに明るく染まる。
「それで、バティの方こそ、ここでぐうたらしていたくせに、何か収穫でもあったのか?」
「ぐうたらなんかしてねえよ。ほら、こいつ見てみな」
 少しふてくされたように言い捨てて、バティが手元に置いてあった一冊の帳面を三人に向けて投げやった。かびと埃にまみれたそれを開くと、中には宿の主人が書いたものと思われる日記が記してあった。

  今日も城から兵士が三人来た。毎度のごとく税の取り立てだった。
  払おうにもこちらにはそんな金を作れるほどの稼ぎがない。
  税の取り立てはやたら厳しくなる一方なのに、昨今のモンスター騒動で客足は遠のくばかりだ。
  そして相変わらず柄の悪い客が多い。
  これ以上ここに店を構えていてもどうにもならない。もうそろそろ潮時か。
  こんな国はとっとと捨ててどこか遠くへでも逃げ出そう。

 どのページもこのような主旨のことが書かれている。
「ラインハットって、そんなにひどいところだったの?」
 アネットがおずおずと声を上げる。するとバティが大きく首を横に振った。
「まさか。ラインハット城下っつったら、『この世の楽園』って評判が立つくらいのところだぞ」
「でも、これ読んでると楽園っていうよりは伏魔殿さながらなんだけど」
「大方何かがあったんじゃないのか。ま、俺も行ったことはないからよく知らんけどな」
「よくそれで知ったような口がきけるな」
 すかさず悪態をつくオズ。それに機嫌を悪くしたバティが睨みつける。
「何だと……お前、もっぺん言ってみろ……!」
 立ち上がってオズに歩み寄ろうとしたバティだったが、すぐさまアネットの腕がその間に割って入った。
「やめてってさっき言ったばかりでしょ」
 アネットが視線で二人をきつく諌める。その視線に射抜かれ力なく肩をすぼめる二人。
 そのやりとりの間、フレイは何も言わずただ食い入るようにじっと日記に目を向け一人黙り込んでいた。
「どうしたの、お兄ちゃん? さっきからずっと黙り込んで……?」
 アネットに呼ばれても、フレイはまだじっと押し黙ったままである。アネットは一度小首を傾げてから、兄の顔と帳面の間に自分の顔を割り込ませた。
「ねえ、どうしたの?」
「うわっ!」
 するとフレイは驚いた様子で大きく飛び退いた。ばさりと乱暴に帳面が床に落ちる。
「な、なんだ、アネットか……いきなり顔を出してくるなよ、びっくりするじゃないか!」
「その前に声かけたよ。でも返事してくれなかったじゃない。どうしたの? 何か考え事?」
 問いかけるアネットからフレイが視線を逸らす。
 考え事をしていたのは確かだ。ラインハットといえば彼とは少なからず縁のあるところである。
 彼の剣の師が属する騎士団があり、先だってその彼が召集されていったのもラインハットである。彼との間には様々ないさかいもあったが、何だかんだと言っても道場で彼を一番慕っていたのはフレイ当人であり、彼が一番気をかけていた教え子もフレイであった。
 気になるのは怪しげな雰囲気のする城に召集されていった師のことだけではない。
 先程川辺で言葉を交わした男の言葉……

 ──我が身を案じるならば、ラインハットには行かない方がいい。

 警告とも強迫ともとれるその一言。この言葉が真実から来るのか虚偽から来ているのか、それすらも判然としない。
 見かけた時から訝しげであっただけに、男が信用するに足る人物なのかどうか。
 考えればきりがない。一人で考えていてもどうにもならないのも知っている。
 だがそのことを語ってああだこうだと問われるのは面倒だ。
「やっぱり何か考えてるんだ。そうでしょ?」
 そんな彼の内心を悟ったのか、アネットが執拗に尋ねかけてきた。
「なっ、何でもない! 考え事なんかしてないから、ほっといてくれよ」
 乱暴に手を振ってアネットを追い払おうとするフレイ。
「ほっといてって言われても……」
「ふあ〜あ……」
 それでもまだしつこくアネットがすがろうとしたところで、バティが大袈裟なまでに大きなあくびを一つした。
「いいかげん眠くなってきた。俺はさっさと寝るから、早いうちに明日の予定でも決めちまおうぜ」
 アネットとオズの冷ややかな視線などそ知らぬ顔で、バティは頭を掻いてベッドに身体を横たえた。
 いかにもやる気のなさそうなその態度を見て、仕方ないわねと言いたげにアネットはため息をつき、翌日の旅の計画を練ることにした。

 

「悪いな、バティ。変な気を遣わせて」
 話を済ませ全員が床に就いてから、フレイは隣で横になるバティに小声で話しかけた。
「別にそんなつもりはねえよ。ただ俺は眠かったから正直に言っただけだ。ぐだぐだ悩んでたいんなら一人で勝手に悩んでな」
 バティはフレイに背を向けたまま、微塵も振り向く素振りを見せずに言葉を返す。
「話はそれだけか?」
「……ああ」
 バティの言葉が、非常にやるせない気持ちにさせる。
「じゃあ俺は寝るぞ。お前も下んないことしてるヒマあるくらいなら早く寝とけ」
 言葉が途切れ、静かになる。やがてバティの寝息が聞こえてくるようになってから、フレイは天井を見上げて一人ごちた。
「……んなこと、知るかよ」

 

 

 ラインハットの街角、建物に囲まれた薄暗い小路で、少年は壁にもたれかかって上がった息を整えていた。
「くそっ……なんで……!」
 何で追い回されなければならないんだ。自分は何も悪いことなどしていないのに、理不尽だ。
 考えたところで憤りばかりが募る。少年は壁を一つ叩いてから走り出した。
 ともかく今は早く家まで戻ろう。何をするにしてもまずは家に帰ってからだ。追いかけてくる連中に捕まれば……何をされるかは考えたくもない。背筋に寒気が走る。
「遅かったなあ、待ってたぞ」
 路地を抜けようとしたところで、彼より一回りも二回りも大きい体躯の少年が三人の仲間を引き連れて待ち伏せしているところに出くわした。
 彼は足を止め、きびすを返して反対方向へ逃げようとした。だが、振り向いた方角からも三人の少年が走り寄ってくる。
「うわっ……!」
 不意に後ろから手首を掴まれる。自分の手首を掴み上げるごつごつとした指が見えた。先頭に立っていた図体のよい少年のものだ。
「くそっ、離せ……!」
 残された左の拳を握り、握られた右の腕に力を込める。
「なんだ、手を上げるつもりか? そんなことしたらどうなるか、お前分かってるんか?」
 彼の抵抗しようとする力を感じて、大柄の少年が皮肉っぽく言った。彼が振り上げようとした拳を振るわせて歯ぎしりする。
「くっ……!」
 この少年を伸してしまうのは容易い。いくらなりがよかろうと、こんな奴は自分の相手になどならない。
 それだけにこの少年に手を上げることすらできない自分への憤慨ばかりが募る。
 彼は震えを押さえきれないまま、握った拳をゆっくりと下ろした。
「そうそう、そうやって大人しくしてりゃいいんだよ」
 少年の声に合わせて他の六人が嘲笑する。
 何にもできないでただ見てるしか能がないくせに……! いら立ちが彼の心をせっつく。
「さあ、こんな場所じゃなんだ。もっと広い場所に行くぞ」
 大柄の少年の声を合図に、六人が裏路地から外に出る。そして間もなしに彼も大柄の少年に引きずられるようにして路地を抜け出した。
「こら! お前達、何やってるんだ!」
 そこへどこからか声がかけられた。声からすると少年のようだが、彼らに比べると幾分しっかりとしている。
 全員がそちらに顔を向けると、通りの向こうから、彼らよりは四つか五つくらい年上と思われる二人の少年がこちらに来るのが見えた。
 金髪と茶髪の少年で、いずれも旅装束を纏っている。金髪の少年は正義感むき出して駆け寄ってきているが、対する茶髪の少年の方はなんともやる気のなさそうな顔で、仕方なしに金髪の少年に着いてきているといった様子だ。
「何だよ、兄ちゃん。何しに来たんだよ?」
 彼を捕まえている少年が声を上げた。
「何だじゃないだろう。その子を離してやったらどうなんだ? 大勢で一人を囲むだなんて卑怯じゃないか」
「関係ないだろ! いいからどっか行ってろよ!」
 虫でも追い払うように邪険に扱われた金髪の少年は、しばらく何も言わずにじっと大柄の少年を見据えていたが、やがてその少年の手元に手を伸ばして、捕まっていた彼の手首から少年の手を強引に引きはがしにかかった。金髪の少年の力は思っていたよりも遥に強く、あっさり二人の手が引き離される。
「ほら、行きな」
 金髪の少年は大柄の少年を捕まえたまま、解放した彼に逃げるように勧めた。何が何だか分からないが、彼はその少年に言われるがままその場からすぐさま駆け出していった。
「あっ、こら待て!」
 残りの六人がばらついた足取りで彼の後を追っていった。だが、あの分ならば到底追いつくことはできないだろう。金髪の少年はそう判断すると、自分に捕まって喚いている大柄の少年に目を向けた。
「おーい、フレイ。あんまり勝手な事すると後々面倒なことになりかねないぞ」
 そこへやっとのことで茶髪の少年が辿り着いた。
「あのな、バティ。あの場面を見てわざわざ見過ごすことなんてできるかよ」
「まったく……正義感も大概のところで収めておけよな……」
「なんでもいいから早くこの手を離せよっ!!」
 フレイとバティが二人で話していると、まだ捕まったままの少年がいら立ちの声を上げた。フレイがキッときつい目をしてその少年を見据える。
「駄目だ! もう二度とあんな事しないって約束するか?」
「何だよ、それ! いいんだよ、あいつには何したって!」
 少年の叫びを聞いて、フレイの顔に怒りと疑問の色が浮かぶ。
「おい、それは一体どういう事なんだ……」
 少年に事を問いただそうとしたその時、その少年がフレイの左手の人差し指にかじりついてきた。
「ってえっ!」
 悲鳴を上げて握っていた少年の手を思わず解放する。すると少年はすぐさまその場から逃げ去っていってしまった。
「っててて……くそ、何も噛むことないだろ……」
「余計なことに首突っ込むからだよ」
 うずくまって呻くフレイと他人事のようにうそぶくバティ。
「大体、たかがいじめに手を出した所で何の得にもなりゃしないだろ」
「……いや、たかがじゃないだろ、あの雰囲気は……」
 フレイの言う通りだった。逃がしてやった少年はどう考えてもいじめられるタイプではない。それなりに体格がよく、気もしっかりとしていそうだった。いじめられるよりはむしろ、いじめっ子を引き連れている方が似合いそうだ。とはいっても、あまりそちらも似合いそうにはないが。
 そして今し方逃げていった少年が残していった言葉も気になる。
「何してもいいって、どういうことだ? あいつは奴隷とか賤民とかか? 時代外れな……」
「俺に聞くなよ。大体、いじめる側の主張ってそんなもんだろ」
「何だよ、その言い分。お前もしかしていじめとかやってたのか?」
「かっ……関係ないだろ、俺のことは!」
「おい、何もムキになることないだろ」
「それより、もう気が済んだろ。さっさと戻るぞ」
「ああ……」
 バティに促されて来た道を戻ろうとしたところで、アネットとオズの二人に出くわした。
「心配だから来ちゃった。……どうしたのお兄ちゃん、その指!」
 アネットは二人の元にやって来るなり、血にまみれたフレイの指を見て驚愕の声を上げた。
「ん? ああ、ちょっとな……。あいつらを懲らしめてやろうとしたら噛まれた。これくらい何ともないよ」
「何ともないわけないでしょう! ちょっと見せてよ!」
 慌ててフレイの元に駆け寄って指の手当を始めるアネット。仲のよい兄妹の姿を見て、バティがやれやれとため息混じりに呟く。
 そしてふと、側にいたオズと視線が合った。
「ふふん」
 意味ありげなオズの笑い。
「なっ、何だよ……!」
 嫌な予感がしてバティはわなないた。オズは嫌な笑いを見せたまま、そのにやけ顔をあさっての方向に向けた。
「さあね〜え」
「さあねじゃない! あっ、こら待て! 正直に言いやがれ!」
 そうして二人は追いかけっこを始めてしまった。
 そんな彼らを見て兄妹が「またか」と重い息をついた。

 

 バティとオズの追いかけっこも終わり、四人は中断していた宿探しを再開しはじめていた。
「しかし……これは思った以上にひどいな」
 周囲を囲む街の雰囲気を肌身に受けながら、フレイが苦々しい面持ちで呟いた。
 どこがひどいのかと聞かれると言葉に詰まるが、ともかく街全体が険悪な雰囲気に包まれていた。ぴりぴりとした視線が行き交い、通りを行く人々の間にはあまり会話が見られない。互いが互いに何かを牽制し合っているような様子である。
「まるで街ごと人間不信に陥ったみたいな感じだよな。楽園が聞いて呆れるぜ」
 バティもフレイと同じように弱り顔をしている。確かに街並みは素晴らしいのだが、いかんせんそれを囲む空気が悪い。楽園と呼ばれるにふさわしいだろう風情もすっかり台無しである。
「でも、楽園って呼ばれてたってことは、前はそのくらいいい所だったんだろ。それがどうして……」
 その時、フレイは物陰に隠れてこちらをうかがう視線に気付いてそちらに顔を向けた。
「どうしたの?」
「ん、いやあっちの方から誰かにのぞき見されてるみたいだったもんだからな……」
 フレイの言葉を受けて全員が同じ方に顔を向ける。すると、物陰からじっとこちらのことを見ている一人の少年の姿が見えた。
「あれ、あいつは……」
 フレイはすぐさまそちらへ駆けつけていった。そこにいるのは、先程彼が大勢に絡まれている所を助けてやった少年に思われた。
「あっ……」
 少年はフレイが近付いてくると気付いた途端、きびすを返してその場から走り去ろうとした。
「おい、待ってくれよ。どうして逃げるんだよ」
 フレイがそれを呼び止める。少年はためらいがちに足を止めると、おもむろに背後のフレイを振り返った。
「やっぱり君だったんだな。俺達に何か用なのか?」
 フレイが尋ねかけると、少年は黙ったまま顔を少し横に逸らした。言い出しにくいことなのだろうか。フレイはじっくりと少年が自ら口を開くのを待つことにした。
「その……ありがとう」
 やがてゆっくりと少年の口が動きだした。
「……さっきのこと……まだお礼も何も、言ってなかったから……」
 それだけのために少年はここでじっと待っていたのだろうか。フレイの顔が笑みにほころぶ。
「なんだ、あのことか。あれくらい、気にしなくてもいいのに。あんなひどい事してるのを見たら、普通放っておけないだろ?」
 少年は再び少し黙り込んでから、おずおずと口ごもるように言葉を続けた。
「……そうかもしれないけど……でも……」
 何か言いたそうな口ぶりである。何となく気になって、フレイは身を乗り出した。
「それじゃ」
 すると少年は咄嗟に背中を向けて走り去っていってしまった。後に残されたフレイが呆然と口を開いたまま立ち尽くす。
「どうしたの、フレイ?」
 そこへやってきたオズの声。フレイは怪訝な顔をして、頭を掻きながら曲げていた腰を上げた。そして一つ首を傾げる。
「さあ。俺にも何がなんだかさっぱり……」
 同調するようにオズも小首を傾げる。
「まあいいや。それより早く行こうよ。さっきっから早くしないと日が暮れるってバティがうるさいんだよ」
 オズがうんざりといった顔をしてしきりにフレイの袂を引っ張る。
「ああ、分かった分かった。分かったからそんなに服を引っ張るなって。伸びちゃうだろ」
 フレイはオズの手と頭に自分の手を回すと、彼に付き添うようにして通りへと戻っていった。
 そして完全に通りへ出る直前に、今一度誰もいない裏道を少しだけ振り返った。

 

「なあ、こんな話ってあるか? めちゃくちゃな話だと思わないか?」
 何軒か回って結局落ち着いた宿の一室で、バティががなり立てる。しかし今一緒に部屋にいるのはフレイ一人。しかもそのフレイもまったく聞く耳を持たぬ様子で荷物の整理なんかをしているので、バティが一人で息巻いている格好になっている。
「おい、フレイ。聞いてるのか?」
 荷袋に向かって仕事をしているフレイの元に近付いてバティが騒ぐ。するとフレイは鬱陶しそうに手を振りつつ少しだけ顔を上げた。
「聞いてるよ、さっきから。何度も何度も同じ事ばっかり言いやがって……結局お前は俺になんて言ってほしいんだ。はいそうです、とでも答えりゃいいのか?」
「何でそんな風に言うんだよ。だったらお前は納得してるのか?」
 フレイは、袋から手を出して腕組みをし、いら立った様子で足を鳴らし始めた。
「してるわけないだろ。でもしょうがないじゃないか、どこ行っても同じだったんだからさ。それに今日のあの雰囲気、あれ見たら何も文句言えないだろ? 街中で野宿でもする気か、お前は」
「たかが一晩で百ゴールドなんて大枚はたかされるくらいなら俺は構わないぞ」
「あのなあ、俺やお前はいいかもしれんが、アネット達はどうするんだよ? あいつらまで一緒に外に寝かすのか? 夜が明けた時にどうなってても知らないぞ」
 フレイの言い分に、バティが怒りもあらわに拳を震わせる。
「ああ! もういい! お前と話してると俺がバカみたいじゃねえか。けっ、そうやっていい子ぶってやがれってんだ」
 そしてバティはわざとらしく大きな足音を立ててベッドに歩み寄っていき、乱暴に靴を脱ぎ捨ててふて寝よろしくそこに横になった。
「何で俺がそんな風に言われなきゃならないんだよ……!」
 フレイはフレイで怒りを募らせて、荷物の整理を再開しだした。

 二人の口論の様子は薄い扉を通して廊下まで筒抜けだった。そしてそれは入浴を済ませて戻ってこようとしていたアネットとオズの二人の耳にもしっかりと届いていた。
「どうする、お姉ちゃん。戻る?」
 扉に耳を当てて会話を聞いていたオズが、恐る恐るすぐ上にあるアネットの顔を見上げて彼女に囁きかけた。アネットは怯えたような表情をして扉から体を離し、小さく首を横に振った。
「……やめておこうかな。今入ると二人に八つ当たりされそうで……すごく怖い」
「そうだね」
 オズも逃げるようにして扉から離れると、先程自分達がやってきた廊下の右手側を向いた。二人は目で合図して、そちら側の先にある、一階に下りる階段に向かって歩いていった。
「でも部屋に戻るまで、どうするの? 下に降りても何もないし」
 オズに言われて、アネットが頬に手を当てて少し考え込む。
「そうね……もう少しお散歩する? 小耳に挟んだんだけど、お城の垣がとっても綺麗なんだって。それを見に行く?」
「あっ、うん。賛成、賛成! そうしよう!」
「ちょっ、階段はちゃんと前を向いて降りないと危ないわよ」
「だーいじょうぶだって……ほら。ねえねえ、お姉ちゃんも早く来なよー」
 さっさと階段を下りて宿の出口に立ったオズが、まだ階上にいるアネットをせわしなく手招きする。
 そしてオズが外へ続く扉を開けた次の瞬間、一人の男がけたたましい音と共に宿の中に転がり込んできた。
「うわっ!」
 オズが慌ててそれを避ける。なだれ込み床でうずくまっていた男は、慌てて立ち上がると扉の向こうに待ち構えていた二人の兵士にすがりついていった。
「お願いします! 何でもしますから、その商品だけは……!」
「駄目だ駄目だ! 無許可で商売をするなんていう馬鹿げたことをした報いだ!」
 兵士達は示し合わせると、大きな荷物を抱えて去っていった。慌てて男が追いかけるがすぐさま兵士達に軽く足先で蹴り飛ばされる。
「ううっ……うっ……」
 路面にうずくまりすすり泣く男。
「あの、大丈夫ですか……?」
 気の毒になってアネットが声をかける。だが男はうずくまったまま差し出すアネットの手を乱暴に振り払った。
「放っておいてくれ!」
「そんなこと言われても……。そんなにひどいケガもしてるじゃないですか、ちょっと見せて下さい」
 アネットはできる限り触れないようにしながら男の傍らへ周り、その左肩にできていた大きな裂傷の上に手をかざして呪文を唱えた。アネットの手から淡く白い光が零れだし、男の肩を包み込むとその傷口を少しずつ塞いでいった。
 手当が終わった後、男は驚嘆に目をむいて自分の肩を何度もさすりだした。
「治りましたよ。立てますか?」
 アネットは座り込んでいる男に手を差し出して微笑みかけた。
 まるで空から舞い降りた天使のようだ……男がそんなアネットの姿に思わず息を呑む。
「あの……」
 黙り込んだままの男を案じてアネットが少し眉をひそめる。
「あ、ああ。大丈夫だよ、一人で立てるから」
 男はせわしない素振りで立ち上がると、全身についた埃を軽くはたき落とした。それから男は先程の言動を顧みて軽くアネット達に頭を下げた。
「悪かったね、さっきはあんな事言って。すっかり滅入って気が立っていたみたいだよ」
「一体何があったんですか?」
 アネットが尋ねると、男は悲痛そうに表情を歪めて黙り込んでしまった。
「あ、ごめんなさい。お話ししたくないことでしたら別にいいんです……」
 アネットが慌てて手を振って先の言葉を撤回する。すると男は小さく首を横に振った。
「いや、いいんだよ。どうせ過ぎたことだし、一人で抱えても仕方ないことだからね。愚痴になるけど、聞いてくれるかい?」
「はい」
 アネットはしっかりと頷いて男の言葉を受け取った。

「最近のラインハットは随分変わってしまってねえ、以前はそれこそ通り名の楽園のようにいい所だったんだが、今じゃすっかり住みにくい所に変わってしまったよ」
 三人は場所を変えて、軽く飲食をしながら男の話を聞くことにした。そして男は初め断ったように愚痴をこぼし始めた。
「客の態度は悪くなるし物を買ってくれない。おまけに城からの徴税がどんどん酷くなっていってね。税が払えなくなって畳んでしまう店がどんどん増えていってしまったよ。私もそんな一人でね、それでも商売は続けたかったからひっそりと続けていたんだけど……兵士に見つかってあの通りさ。無許可でやってるのを見られると商品や売り上げごと店を取り上げられてしまう。もうここじゃ、商売なんてできないのかも知れないね」
 男が重いため息をつく。二人は神妙な面持ちで男の話に聞き入っていた。
「関所の宿屋で見た日記と同じだね、お姉ちゃん」
 オズに言われてアネットは頷いた。
「関所? ああ、あそこの……。あそこは実は私の友人がやっていたんだがね……」
「もうその宿屋さんも畳んでしまっています」
「そうか、あいつもとうとう我慢できなくなったか……」
 男がゆっくりとかぶりを振る。すっかり塞ぎ込んでしまった顔付きをしている。
「でも、そんな状態で誰も城に文句言いに行ったりしないの?」
「もちろん何人も訴えに行ったよ。だけど誰も帰ってこなくてね……それでみんな恐ろしくなってしまって泣き寝入りさ」
 アネットとオズが無言で顔を見合わせる。ラインハットの城を中心に明らかに何かしら異常が起こっている……お互いの顔が明白にそれを訴えていた。
「悪いね、こんな話に付き合わせてしまって。お詫びにと言っては何だが、ここの支払いは私が引き受けるよ」
「そんなとんでもない! あんな事があっておじさんの方が辛いでしょう。私達に払わせて下さい」
「いいのかい? ……すまないねえ……それじゃあ、私はもう行くことにするよ。本当に、悪かったね」
「いいえ。おじさんこそ、お達者で……」
 そうして男は店から出て行った。力なく揺れる男の大きな体が、なんとも物寂しげである。
 二人は哀れみの目でそれを見送ってから、もう一度お互いに向き合った。
「ねえ、お姉ちゃん……」
「ダメよ」
 無下に拒否されてオズは思わず身を乗り出した。
「でも……! どの道お城に行くつもりだったじゃないのさ! だったら……」
「ダメよ。なんだか危険すぎるような気がするわ。それに私の一存じゃ決められないから、お兄ちゃん達と相談しないと」
 本当はアネットだって行きたいに違いない。逸らされた目はそれを物語っていた。オズはそんな彼女の様子にもどかしさを覚えていた。

 アネット達が宿に戻ってくると、バティはすっかり寝付いており、フレイの方もベッドに横になってうとうととまどろんでいた。
 フレイは部屋に入ってきたアネット達に気付くと、けだるそうに身体を動かして二人のことを見やった。
「随分遅かったな……どれだけ風呂に入ってたんだ?」
 相当眠いのか仏頂面をしているが、先程口論していた時のように怒っている様子はない。アネットは何となくほっとして胸をなで下ろした。
「ううん、そうじゃないの。ちょっといろいろあってね、お散歩してたんだ」
 すごい剣幕でケンカしてたのが恐かったから、なんて本当のことを言うわけにもいかない。そう思ってアネットは適当にはぐらかすことにした。するとフレイは未だぼーっとした様子で、軽く頭を掻いてからシーツにくるまった。
「そっか……ま、何でもいいや。俺は寝るから、後任せたぞ」
「うん、分かった。ごめんね、眠たいのに起こしっぱなしで」
 アネットの声が届いたのか届いていないのか、フレイはすぐさま大きな寝息を立てて眠り込んでしまった。
「お城に行くかどうか相談するんじゃなかったの?」
 オズが面白くなさそうに口を尖らせて、勝手に寝てしまったフレイのことを睨みつける。
「うん……でも、お兄ちゃんすごく眠たそうだったから。多分いろいろあって疲れてたんだよね。だから無理させちゃ駄目だよ」
「うーん……」
 なんとも納得のいかない様子でオズが呻く。アネットはそのオズの頭を軽く撫でた。
「私達も早く寝ましょ。さっきのことは明日にでも話せばいいから。久しぶりにゆっくりと眠れる所に来たんだから、こう言う時にはしっかりと寝ないとね」
「うん……分かった」
 歯切れの悪い返事を残して、オズはアネットに押される形で寝床に就いた。

 

 ──私が発ってからそろそろ三ヶ月ほどになるが、そちらではどう過ごしているであろうか。
 そちらにはなかなかと奔放な生徒が多かったので、私も随分と手を焼かされたものである。
 しかし、今ではそれを懐かしく感じるようになってきた。
 まあ、子供は本来元気である事が何よりなので、少々の事ではあまりきつく叱ってやらないでほしい。
 最近は物騒な話をよく耳にするようになった。そのためにも、町を護るべき強い若者が育つ事を期待している。

「おい、何をしている」
 ラインハット城内の兵舎。ロゥエルがその一室で粗末な机に向かって筆を走らせている。そこに入ってきた兵士が、そのロゥエルの姿を見かけて、諫めるような強い語調で声をかけた。
「手紙だ。安心しろ、達しに従ってこちらの身辺に関しては一切書いていない」
 呼び止めた兵士の顔を振り返り見る。自分に先のような声をかける輩だから、見知り顔でないこと、最近入ってきたばかりの新参兵であることは、仰ぐ前から分かっていた。
 卑劣に歪むその男の顔が目に飛び込んできて、ロゥエルは慨嘆し目を伏せた。
(まったく、成り下がってしまったものだな。清廉潔白な騎士団の誇りは、いったい何処に行ってしまったというのだ。これではただのちんぴら集団ではないか)
「なんだ、その目は。お前、俺を馬鹿にしているだろう」
「別にそんなつもりはない」
 軽く手を振り、歩み寄り絡んできた男を追い払う仕草を見せる。しかしそれで下がるわけでもなく、男は忌々しげに鼻を鳴らしてロゥエルのいる机の横にやって来た。
「一体何書いてんだあ? ああは言ったがよ、一応は調べてやらないとな」
 首を伸ばして、男がロゥエルの書いていた手紙を覗き見ようとしてくる。彼は咄嗟にそれをつかんで、男の目から遠くに引き離した。
「おかしなことは書いていないと言っているだろう」
 ロゥエルが凄味を利かせると、男はへっへっといびつな歯形を晒して卑しい笑いを見せた。
「おーおー、怖いねえ。ま、お前さんがそこまで言うんなら信じてやる事にするよ。で、どこに出そうってんだ?」
 今度は男は左手を伸ばして、ロゥエルの手から手紙を奪い取ろうとした。ロゥエルがすかさず手紙を持っていた手を変えて、男の手に捕まらないようにする。
「お前には、関係ないだろう。余計な詮索はしないでもらいたい」
「いいじゃねえかよ、宛先くらい教えてくれたってよ。ほら、貸せよ」
 男がもう一方の手を伸ばして、今度こそ強引にロゥエルの手から手紙を奪い取る。読まれる前に取り返そうとロゥエルは手を伸ばしたが、男はすぐさまロゥエルから離れた位置に飛び退いてしまった。
 別に読まれて困るような事が書いてあるわけでもないと諦めるロゥエルの前で、男は手の中の紙を持ち上げて中身に目を通した。
「ほぉ……」
 直後、男は含みのある顔で一言漏らすと、声を殺してくつくつと忍び笑いを始めた。
「何がおかしい」
 ロゥエルがとがめても、男はまだしばらく笑っていた。たっぷりそうして満足してから、男は手の中の手紙を無造作に握りつぶした。
「お前知らねえのか? フレミーノの町が今どうなってるのかって事をよ」
「どういう事だ?」
 男の言葉を受けてロゥエルが眉根を顰める。その反応を見て男が再び笑い出す。
「その分だと、本当に知らねえようだな。フレミーノの町は今はありませーん、ってな」
 両腕を広げてわざとらしく男がおどけてみせる。かんに障ったロゥエルが、勢い良く立ち上がって男の襟元に掴みかかる。
「ふざけるな! 私を馬鹿にする気か!?」
 しかし、ロゥエルの剣幕を受けても、ひるむ様子もなく男の表情はまだにやけきったままでいた。
「別にふざけてもねえし、馬鹿になんかもしちゃいねえよ。フレミーノの町はよ、モンスターの集団に襲われてお陀仏。火の海に呑まれちまったってよ」
「なっ……!」
 動揺を隠せないまま、ロゥエルは男から手を離して壁により掛かる。
「まっ、そんなわけだからよ、こんな手紙書く意味ねえよ、ってことさ。残念だったなあ、へっへっ」
 手紙をぐしゃぐしゃと丸めて机の上に投げ捨て、男がロゥエルに近付き、うなだれる彼の肩を叩こうとする。ロゥエルは乱暴にその手を払うと、男の胸を押して彼を突き放した。
 男は落胆するロゥエルに蔑むような一瞥を投げてから、意気揚々と部屋を後にした。
 自分の知らぬ間にそのような事が起きていたとは…… あれだけ八方に手を伸ばして世界の現状に目を向けていたつもりだったのに、ラインハットからさほど遠いわけでもない、自分が世話になっていた町の有様すら知らなかったとは……

 ロゥエルは、丸められた机の上の紙を睨みつけて憤激した。

 

 翌朝、食事の席でアネットは昨夜出くわした男との出来事について話した。
「そうか。それじゃあ城の方で何かよくないことが起きてるんだろうな……おい、フレイ。どうする、城に行くのか?」
 フレイは腕を組み深く唸って考え込んでいた。ますます案ずるべき点が増えた。それゆえにフレイの苦悩は極みに達していた。
「おい、フレイ?」
「すまん、少し考えさせてくれ」
「少しって、お前なあ……今のアネットの話聞いてただろ。この分じゃあんまりここに長居するのはよくないぜ」
「分かってるよ。昼までには答えを出すから」
「昼までだな。ちゃんとしてくれよ、お前は一応形だけでも俺達のリーダーなんだからな」
 そうしてバティは一人席を立った。
「どこ行くの?」
「ちょっとぶらぶらしてくる。そいつが昼までって言ったんだ、どうせ昼いっぱいまでグダグダ悩んでるに違いないからな。そんなに付き合ってられるかよ」
 それだけを言い残してバティは店から去っていった。オズがふくれっ面をそちらに向ける。
「なんだよ、あの言い方! しゃくに障るなあ!!」
「いや、確かに俺が悪いんだけどな。いつまでも踏ん切りつかないことやってるから」
 そしてフレイも席を立つと、静かにその場を後にした。後に残る沈黙。それから続いてアネットが立ち上がった。
「お姉ちゃん?」
 アネットは忙しく財布からお金を出してテーブルに置いた。
「ごめんね、オズ君。これでここのお金払っておいてくれる? 私、今からお兄ちゃんを追いかける!」
「えっ、ええっ!?」
 あ然とするオズをよそに、アネットは兄の背を追って小走りで店を出て行った。

「お兄ちゃん!」
 店を出てすぐ、背後からアネットの声がしてフレイは振り返った。足を止めたフレイの元にアネットが小走りで近付いてくる。
「何だアネット、何の用だ?」
 一人になりたくて店を出たというのに勝手に着いてきてしまった妹を、フレイはさも煙たそうにねめつけた。
「ごめんね、お兄ちゃん。でもなんだか悩んでるみたいだったから……少しでも力になってあげられないかな、って……」
 やはり余計な気を利かせて飛び出してきたのか。フレイは小さく吐息を漏らしてから、彼女を追い返そうと手を持ち上げた。
 その時、
「うわあっ!!」
 そんな大声と共に路地の片隅から一人の少年が文字通り転がり込んできた。さらにその後を追って数人の少年が姿を現す。
「あっ、お前は……!」
 その少年達が驚きの声を上げる。何事かと見渡してみれば、それはフレイが昨日出くわした少年達であった。彼の足元では、昨日彼が助けた少年が傷だらけ泥だらけの姿で転がっている。
「なんだ、お前達。また懲りずにやっていたのか?」
 フレイが少年達を睨みつける。それだけで少年達は意気消沈してしまい、捨て台詞を吐いて散り散りに去っていった。後にはぼろぼろになった少年だけが残される。
「なあ、大丈夫か」
 フレイは屈み込んで、その少年を助け起こした。少年はフレイの顔を見ると、申し訳なさそうに顔を背けてうつむいた。
「そんな恥ずかしがるなよ。俺だって別に好きでやってることなんだしさ」
 フレイが少年の服にまとわりついた埃を払い落としてやる。
「それにしてもあいつら、ひどい連中だな。まったく何考えてやってんだか。まあいい、それじゃあな」
「あ、あの……っ」
 フレイが別れを告げて去っていこうとするのを、少年が慌てて引き止めた。
「うん?」
「あ、あの、さ……」
 昨日の時と同じである。少年は何かを言いたそうにもじもじと身を揺さぶっている。フレイはあの時と同じようにして逃げられたりしないように、身を乗り出すことなくただじっと少年の様子を見つめて少年が話を切り出すのを待った。
「よかったらさ、うちに来ないか……? 昨日のことも合わせて、さ……お礼が、したいんだけど……」
「お礼? ああいいって、そんなの。別に大した事したわけじゃないし」
「いいじゃない、お兄ちゃん。してくれるって言ってるんだし、受けちゃったら?」
 断ろうとして振られていたフレイの手を引っ張ってアネットが割り込んでくる。
「何だよ、お前。勝手に割り込んでくるなよ」
「どうしてよ? 折角勇気出してこうして誘ってきてくれてるのに、それを断るの?」
「う〜ん……」
 フレイは頭に手をやって少年の顔を見た。ひどく申し訳なさそうな顔である。もしや今この場で二人が口論しているのは自分のせいだと思っているのだろうか。フレイは少し身を低くして、少年と同じ高さまで頭を下げた。
「ごめんな、変な心配かけさせちゃって。それじゃあ、お言葉に甘えるとしようか。連れてってくれるか?」
 少年はにわかに表情を明るくして頷いた。
「うん。あ、姉ちゃんも来なよ」
「え、私?」
 アネットは自分を指差して目をしばたたかせた。
「でも私、何もしてないよ?」
「いいんだ、兄ちゃんと一緒に来なよ!」
 少年はアネットの手を取って強引に引っ張っていってしまった。
「ああっ、ちょっと待ってよ、そんな引っ張らないで……! ちょっと、お兄ちゃん〜!」
 少年に引っ張られながらアネットが助けを求める。その光景にフレイは笑みを一つこぼしてから、後を追って走って行った。

 少年に案内されて辿り着いたのは、ラインハット城を囲む大きな濠のほとりにある一軒の家だった。
 人通りの多い通りに比べると周囲は随分静かである。比較的豪勢な家々が一帯に建ち並び、少年の家もそれらには見劣りがするが普通の民家と比べれば充分に立派なものである。
「なあ、君のお父さんって、もしかして王宮騎士とか?」
 こんな立派な家に住むのはきっと位の高い家に違いない。そう踏んでフレイは少年に尋ねた。うまくすれば城で起こっている出来事とかも聞き出せるかも知れない、そんな期待もあった。
「……こっちだよ」
 しかし、少年は顔を背けると、それだけを言ってドアに手をのばした。
「あっ……!」
 ドアは少年が手をかける前に、内側から開けられた。その奥から疲れ切った様相をした中年の女性の姿が現れる。
「母さん……」
「誰だい、あんた達は!? 何しに来たか知らないけど、とっととどっかにお行き! お前もこんなわけの分からない人達を連れてくるんじゃないよ! とっととその人達を追い払ってきなさい、いいね!」
 女性はヒステリックな叫び声を上げると、壊れてしまいそうなほど強く扉を閉めてしまった。そして内側から鍵を掛ける音が聞こえてくる。
「…………何、今の?」
 呆然となってアネットが呟いた。明らかに女性の物言いはひどいものであったのだが、あまりに突然すぎる事の流れに思考を着いていかせることができなかった。
「理由は分からないけど……なんか嫌われたみたいだな、俺達」
 ようやく自分を取り戻したフレイが、いかにもばつが悪そうに頭を掻いた。
「でも、私達何か悪いこととかした?」
「さあ。理由は知らないけど、異常に懐疑的になってんじゃないのか、多分」
 兄妹が話し合う横で少年が重苦しそうに肩を落とした。
「ごめん……」
「ああ、そんなに気にするなって。別に俺達、何も気にしちゃいないんだからさ」
「でも……」
「だから気にするなって。それより、よかったら何があったのか聞かせてくれないか? 俺達、よそから来てここのことよく知らないんだ。この町で何が起こってるのか、それだけでもいいからさ」
 少年がひどくためらった様子を見せる。何か口外するといけないようなことがあるのかも知れない。
「あ〜、ごめん。話したくないことだったら別に……」
「こっちに来て」
 フレイが前言を撤回しようとしたところで、少年は二人に自分に着いてくるように促した。フレイ達はお互いに顔を見合わせてから、少年の後に着いていくことにした。

 少年に案内されるまま彼らは濠の周囲をぐるりと回り、やがて見えてきた柵を乗り越えて、濠に水を供給する川の岸辺までやってきた。少年は放置されて伸び放題になっている草をならして、そこに腰を下ろした。
「ここは?」
 少年の横に腰を下ろしてフレイが尋ねた。
「ここ、俺のお気に入りの場所なんだ。誰にも教えてない、秘密の……」
 少年は安心しきったようななんとも無防備な表情で目の前の川の流れを見つめている。そんな彼の目を見ながら、フレイはふとフレミーノにいた頃の自分を思い返した。少年と自分との間に似た所を見つけて、その少年への一体感を覚える。
 ちらりと横を見やると、アネットが微笑ましい表情で彼の顔を覗き込んでいた。きっと彼女は「お兄ちゃんにそっくりだね」とでも思っているに違いない。
「なあ、そんな所に俺達を連れて来ちゃってよかったのか?」
「ああ。兄ちゃん達だから、連れてきたんだよ」
「私達だから?」
「うん。どうしてだか、よく分からないけどさ……」
 じっと少年が二人の目を見る。妙な気まずさを覚えてアネットが少しだけ目線を逸らした。
「それでさ」
「ああ、ごめん。話を、するんだったよね」
 少年が近くにあった小石を川に投げ込む。小石が水面に潜り込む一つの音が、和やかな辺りの空気を振り払った。
「俺の父さんさ、兄ちゃんが言った通り、王宮騎士だったんだ」
「だった?」
 二人の声が同時に上がる。少年が静かに頷いた。
「死んじゃったんだ。処刑されたんだよ」
「処刑!? そんな、どうして……!」
 少年が顎先を抱え込み、目を伏せて首を横に振る。
「よく知らない。王様に何か物言いをしたからなんだって」
「そんな無茶苦茶な」
 最初は冗談かとも思ったが、少年のその悲痛な表情を見る限り真実であるらしい。少年はさらに言葉を続けた。
「ここ二、三年、城も街もみんな様子がおかしいんだよ。城のことは父さんからしか聞いていないからよく知らないけど、街の中だって柄の悪い兵士達が大きな顔してのさばり始めて……」
 少年の話を聞いて、アネットは昨夜商人と悶着を起こしていた二人組の兵士のことを思い出していた。
「それでさ、父さんが処刑されてから、うちの生活が変わっちゃったんだよ。城の方からも、周りのうちからも罵声がかけられるようになったり、うちから追い立てようとする奴らが出てきたりしてさ……あんまりひどいもんだから、母さんもあんなになっちゃって……兄ちゃんが追い払ってくれたあいつらも、ちょっと前まで普通の友達だったんだけどさ、父さんが処刑されてからころっと態度を変えて、俺のことを追い回すようになったんだ……」
「そんな、ひどい」
 宿で見かけた帳面、目の前の少年の話、昨夜の商人の話。どうやら、城が、それも特に今の国王がこの事態を起こす引き金を握っているようだ。なるほどそれならばビスタ港に発せられた不条理な出港禁止命令も合点がいく。
「おい、お前ら! こんな所で何をやっている!」
 その時、彼らの背後にある林の方から怒鳴り声が聞こえてきた。振り向くと、林の中からこちらに向かって駆けてくる三人の兵士の姿が見えた。
「やばい……! 逃げよう、兄ちゃん、姉ちゃん!」
 少年がきびすを返してその場から逃げ去ろうとする。二人も少年に続いて立ち上がろうとしたが、そこで二人の兵士に囲まれてしまった。
「うわあっ! 離せえっ!」
 少年も程なくして追いかける兵士に捕まり、フレイ達のいる所まで強引に連れ戻されてしまった。
「なんだ、誰かと思ったら、陛下に物言いしたあいつの息子か」
「何やってんだ、お前? ここは入っちゃいけないってパパやママに教わったんじゃないのか〜、ああ?」
「いっ、いてててて……!」
 兵士達が笑いながら少年の体を引っ張って痛めつける。少年が目に涙をためて悲鳴を上げた。
「おい、やめろよお前ら! 痛がってるじゃないか!」
 怒ったフレイが怒鳴り声を三人に浴びせた。全員が一斉に彼に顔を向ける。
「うっせえな、このガキ。文句あんのか、ええ?」
 兵士の一人がフレイの手を取ろうとその手を伸ばしてきた。
「っ!!」
 咄嗟にフレイは逆にその兵士の手首を取ると、腹に一発蹴りを入れ、自分よりも大きなその兵士の体を担いで足元の地面に投げ下ろした。
「ぐはっ……!」
「何しやがる、このガキ……!」
 すぐさま残りの二人がフレイに飛びかかっていった。一般人ならば数人くらい相手にしても平気なフレイだが、さすがにそれなりの訓練を受けている兵士では分が悪い。フレイは身を小さくして兵士達の手をくぐり抜けると、後ろで呆然と立っていたアネットと少年の手を取って駆け出した。
「えっ? あっ、ちょっ、お兄ちゃん……っ!?」
「仕方ない、逃げるぞ!」
 フレイは、状況が解らぬままのアネットと少年を引きずるようにして、その場から逃げ出していった。
「あっ、こら小僧! 待てっ!」
 打ちのめされた一人を残して、二人の兵士は逃げ出した三人を追って駆けていった。

 けたたましく音を立てて兵士の足音が通り過ぎていくのを確認して、フレイは安堵の息をつき、アネットの口を塞いでいた手を下に下ろした。
「ふう、取りあえず巻くことができたかな」
 フレイが警戒して周囲を見渡していると、突然その頭に拳が突きつけられた。
「痛っ! 誰だよ、今殴ったのは!」
「ばか! ばかばかばかばか、お兄ちゃんのばか! いっつもそうやって見境無く行動して!」
 鬼のような形相。アネットは振り向いたフレイの肩を乱暴につかむと、激しく何度もその頭を叩き始めた。
「うわ、バカ、やめろ、こんなところで……っ! わ、落ちる、落ちるっ!」
 バランスを崩さないようにと、必死になってフレイは座っていた枝と背後の幹に体を預ける。それでもアネットの手は止まらない。
「お、落ち着いて、姉ちゃん! それに、今ここで騒いでたら……」
「いたぞ! ここだ!」
 アネットを止めようと少年が身を乗り出したその時、三人の足下から叫ぶ男の声がした。驚いて下を向くと、木の周囲を取り囲むようにして、何人もの兵士が立っていた。
「げえっ、増えてる……!」
「兄ちゃん、姉ちゃん、こっち!」
 少年は二人を呼ぶと、一際伸びている枝の先まで行って、そこから隣接する建物の屋根に飛び乗った。兵士が駆け寄る前にと急いで二人も後に続く。
「あっちに行くぞ! 逃がすな!」
 号令に合わせて、木に群がっていた兵士達が、対岸に居並ぶ長屋式の建物の縁を辿るように、濠に沿って駆け出した。
「えーん、なんでこんな事になるのー?」
 ふらふらになりながら屋根の上を走り、アネットが泣き言を漏らす。
「そんなこと言ってるヒマあったら早く来いって」
「わ、分かってるわよっ!」
 フレイに言われたことが気に食わなかったらしく、アネットは反抗的に声を荒げて返答した。そして棟と棟の隙間を飛び越えようととんだその時だった。
「うわっ!?」
 頓狂なアネットの声がして、先を行く二人は足を止めて振り返った。見れば大穴の開いた板葺き屋根に、腰から下を埋もれさせてもがいているアネットの姿がある。
「だ、大丈夫、姉ちゃん!?」
「た、助けてー……着地しようとしたら、いきなり穴が開いて……」
 そうしている間にも、アネットがしがみついている辺りの板が嫌な音を立ててきしんでいるのが分かる。フレイはあまり振動を与えないように慎重にアネットの方へと足を運んだ。
「静かにしてろ。あんまり暴れると、もっと崩れるぞ」
「そ、そんなこと言われても、この手を離したら落ちそうな感じが怖くって……早くおねが……っ!」
 あと少しで手が届きそうなところまで来たところで、アネットの肘を支えていた屋根板が崩れ落ちると、粉々の木屑となった屋根板とともに彼女の体が穴の底へと姿を消していった。
「きゃあーーーーーーーっ!」
「アネット!」
「姉ちゃん!」
 アネットの落ちた大穴に駆け寄り、二人が声をかけた。道中鳴り響いた轟音が嫌な想像をかき立てる。穴の下は薄暗く、底の方はよく見通せない。直下の階の床にも大きな穴が開いているあたりからして、階下まで突き抜けて落下していったらしい。
「ま、まさか……ってことは、ないよね?」
「さ、さあな……とりあえず、俺達も下りようぜ」
 フレイは屋根板の状態を注意深く確認すると、まだ丈夫そうな板のへりにしがみついて、屋根の下へと潜っていった。
「大丈夫、兄ちゃん?」
 少年は顔を突っ込んで、下の様子を窺った。薄暗い部屋の、穴の開いた床の近くに立って手招きするフレイの姿が見える。
「おー、大丈夫だ。お前も早く来い」
「分かった」
 少年もフレイがしたのと同じように、同じ場所をつかんで中へと飛び込んだ。穴に落ちないように場所を探して飛び降りると、着地したその場から濛々と埃が舞い上がった。
「うえっ! えほっ、えほっ! 何さ、このホコリ!」
 大量にそのホコリを吸い込んでしまった少年はむせ返り、大仰に手を振って埃を払った。
「屋根も床もボロいし、中の物もホコリやサビだらけだな。長いこと使われてなかったんじゃないか」
 フレイは舞い上がる埃が収まるのを待ってから、床に開いた穴の間際に座り込んで、底から下を覗き込んだ。
「おーい、アネット! 大丈夫か!?」
 穴の下は倉庫だったのだろうか。無数の木箱や荷袋などが散乱していて、その中心に埋もれるようにしてアネットの姿があった。
「う、うんー……だ、だいじょうぶー……」
 か細いが、しっかりとした返事が穴の底から返ってきた。しかし、荷袋に身を預けて横たわるアネットの姿に動く様子は見えない。
「本当に大丈夫なのか? 待ってろ、今行くからな」
 そう言ってフレイは穴を潜って下の階へと飛び降りた。積み上げられた荷袋も、上の階の床同様、相当の埃を被っており、着地した足の下から大量の埃が舞い上がって、辺りは砂嵐にでも見舞われたかのような惨状になった。
「うわっ! こりゃ相当凄いな。……おい、アネット、怪我とかしてないか?」
 埃を軽く払ってから、フレイは器用に荷物の上を歩いてアネットのそばに近付いていった。
「うん……ちょっと、背中とかお尻とかぶつけてズキズキするけど、大丈夫……」
「そうか。ったく、ドジにも程ってもんがあるだろうが」
「屋根に穴が開いたのは私のせいじゃないよう」
 アネットがぷっくりと頬を膨らませて抗議する。そのアネットの手を取って、フレイは彼女の体を引っ張り上げた。
「しっかし、ここは一体どういうとこなんだ?」
 フレイは顔を上げて周囲を見渡した。
 薄暗く、埃と黴の匂いが充満するそこは、倉庫というよりはごみ置き場と言った方が適切に思われる。中身の詰まった麻袋や木箱、樽などが天井近くまで無造作に積み上げられているが、農具などの生活感を感じさせる物は一つとしてなかった。
「ん? 何だ、あれ?」
 フレイは荷物に半分埋もれるような形で隠れていた木製の蓋に気付くと、荷物の間を滑りながらそこまで下りていった。
「どうしたの、お兄ちゃん。そこに何かあるの?」
「ん、ああ。何か変わったものを見つけてさ」
「変わったもの? またおかしな物に手を出したりしないでよ?」
 何か危険な事でも起こしたりしないかと、不安になったアネットもフレイのそばに近付いていった。
「ちぇ、信用無いなあ。まあいいや。なあ、このフタの淵からはみ出してるのなんだけどさ、ひょっとしたら縄ばしごじゃないか?」
 フレイは手を伸ばして、蓋からはみ出ている一対の縄を引っ張り上げた。そうして少し引き上げてみると、確かに縄の間に渡しがかけてあるのが見える。
「ほんとだ。じゃあ、この下に何かあるってこと? こんな廃屋の下に……?」
 ──ドン、ドン、ドン!!
「わっ!?」
「きゃっ!」
 アネットが縄を手にしてその様子を調べようとした直後、目の前の大きな両開きの扉が、大きな音を立てて揺れだした。扉に取り付けられた錆だらけの錠前が激しく揺れて、がしゃがしゃとやかましく喚き立てる。
「くそっ! いくらやってもビクともしないぞ!」
「だが、この中にいるのは間違いない! いいか、絶対に取り逃がすな! 最悪ぶち壊してでもいいから乗り込め!」
 扉の向こう側から、男達の怒号がする。
「や、やばいよ、兄ちゃん! 兵士の連中、ここの周りを囲んでるよ!」
 階上で様子を窺っていた少年が狼狽した声を上げる。
「ど、どうしよう、お兄ちゃん……」
 アネットもそら恐ろしさを覚えて、フレイの腕にしがみつく。フレイは少し思案する様子を見せてから、先程まで眺めていた木蓋の取っ手に手をかけた。
「お兄ちゃん!?」
「どの道正面切って逃げられないんだ。だったら、ここをこじ開けて下に逃げ込むぞ!」
 フレイは目一杯力を込めて取っ手を引いた。しかし、のしかかる荷物が重すぎるためか、何度引いてもまったく動く様子がない。
「…………くそっ!」
 切羽詰まって喚くと、フレイは腰の剣を抜いてそれを木蓋の真ん中に突き立てた。くずを撒き散らして木蓋の表面が削られる。
 その間にも扉は引っ切り無しに叩かれ、焦りを募らせる。フレイはがむしゃらに剣先を叩き付けて蓋を切り捌いていった。
「このっ! 早く……開け……っ!」
 一際大きく振り上げてフレイが木蓋に剣を突き立てる。
 剣が木蓋に深々と突き刺さったかと思うと、次の瞬間、小さな音を立てて剣が折れる音がした。フレイは忌々しげに唇を噛み締めると、突き刺さっていた剣に全身を乗せて更に奥へと押し込んでいった。すると、何度も叩き付けられてもろくなった木蓋は四つに割れ、その下から口を広げた縦穴の奥へと吸い込まれていった。
「よし、やった! さあ、この中に入るぞ、来い!」
 フレイはアネットと少年を呼んで先に下りるように促すと、ナイフを取り出して渡りを切断しながら縄ばしごを下りていった。
「結構深いね。足下気をつけないと、落っこちたら大けがしちゃいそう」
 先頭を行くアネットが下を見ながら呟く。
「気をつけろって言っても、もう真っ暗だよ」
 延々と続くはしごを下りているうちに、いつしか目の前以外の景色が分からないまでに周囲は暗くなっていた。
「ちょっと待って。今、明かりをつけるから」
 アネットは腰の袋からたいまつを取り出すと、呪文でおこした火をそこに移した。小さな火の光がぼんやりと縦穴の中を照らし出す。
「思ったより広いね。あっ、あれ。底じゃない?」
 少年が指差す先にたいまつの火をかざすと、そこから苔むした石畳が姿を現した。
「あっ、本当。……下りても大丈夫かな?」
「考えててもしょうがないだろ。俺、もうはしご切っちまったぞ。もう戻れないからな」
 アネットが慎重に場所を選んで足を下ろす。
「わあ……」
 そして開けた通路の先にたいまつの火をかざして、驚きの声を漏らした。
「どうした、何かあったのか?」
 続けて二人も下りると、その先を見渡した。
「うわ、すっげえ。何だこれ!?」
 下りた先には広大な通路が広がっていた。頑丈な石壁に覆われた通路が左右に伸び、右手側は途中で折れ曲がって先に続いている様子である。
「ここって、お城の敷地の下だよね? こんな通路があったなんて」
「非常の際の抜け道ってことかな? 取りあえず進んでみようぜ」
 フレイはアネットからたいまつを受け取ると、先頭に立って右の通路を歩いていった。突き当たりを曲がり、その先に広がる十字路に差し掛かったところで、どこからか水の跳ねる音が聞こえてきた。
「? こっちに行ってみようか」
 三人は水音のした方に足を向けた。聞こえてくる音に従って二度、三度、通路を曲がったところで、道は大きく開け、小舟が一艘浮かべられそうな広さの水路が目の前に現れた。水路はその広さを保ったまま真っ暗な闇の中へと吸い込まれており、その向こうからはざあざあと水の落ちる音が聞こえてくる。
「もしかして、この先って、お濠に繋がってるのかな?」
「かもな。どっちにしろ、こっちはここで行き止まりみたいだから、戻って別の道を探そう」
 曲がり角まで戻り、三人は別の道をもう一つの道を進んだ。途中階段を上るなどして、複雑に分岐する道を選びながら歩いているうちに、通路の前方から光が差してくるのが見えてくるようになってきた。
「お、ひょっとしてあっちが出口か?」
「……でも、あっちに行っても大丈夫なのかなあ?」
 アネットは明かりが見えたことに急に不安を覚えた。どう見ても打ち捨てられたとしか思えなかった内装の廃屋、物音一つせず人の使っていた気配のない通路、その先に見える明かりの正体が果たしてまともなものなのだろうか。
「気にしたってしょうがないだろ。取りあえず行ってみようぜ」
 フレイに促されて角を曲がると、その先に頑丈そうな木製の扉が現れた。扉にしつらえられた窓の向こうからこぼれる明かりが、ほんのりと床を照らしている。
「なんだ、出口じゃないのか」
「でも、明かりがあるって事は、この奥に人がいるんだよね? 何やってるのか聞こえないかな?」
 少年が扉に駆け寄ると、耳を押し当てて中の様子を窺おうとした。
「そんなことして大丈夫かな?」
「おっ、面白そうだな。俺もやらせてくれ」
「もう、お兄ちゃんまで!」
 たいまつをアネットに押し付けて、フレイも少年と同じように扉に寄り添って耳をそばだてた。そうして目一杯耳を押し当てていると、微かだがその奥から人の話し声が聞こえてきた。
『──……があと3つ、それから……が必要…………儀式を……』
『…………税を……それと…………から、徴兵を課すのも……』
『………………オラク……フレミー……傭兵を…………』
「ねえ二人とも。何が聞こえるのか知らないけど、こんな事やめようよ」
「あー、バカ、声かけるなよ。聞こえないだろ」
「誰だ! そこで何をしている!」
 通路の奥から男の怒号が聞こえて、フレイと少年は扉から顔を話して立ち上がった。
「やばい、見つかった! きっと兵士だよ!」
「逃げるぞ!」
「またなの!? もう、お兄ちゃんのバカぁ!」
 三人はきびすを返すと、自分達が辿ってきた通路を戻る形で逃げ出した。直後、フレイ達が顔を当てていたが開かれ、中から数人の兵士が出てくる。
「不審者か! どうやってここに!?」
「まずいぞ。もしさっきの話を聞かれてたのなら……!」
 兵士達は頷き合うと、三人が逃げていった方に向かって駆けていった。

 

「バティ! おーい、バティ!」
 城下町の西側にある門近くに生える大樹にもたれてまどろんでいたバティの耳元に、騒がしくわめき立てるオズの声が聞こえてきた。鬱陶しい存在が、明らかに自分を求めて近付いてきているのを知って、バティは露骨に嫌そうに顔をしかめた。
「あっ、バティ! こんな所にいたのか!」
「っせぇな、んな大きな声出さなくたって聞こえてるよ。で、一体何なんだよ? まだ昼までにゃ時間があるぞ?」
 一度あくびをして、バティは面倒臭そうに腰を上げた。そして改めて見てみると、オズはひどく切迫した表情で顔一面に冷や汗をかいていた。
「そんなこと言ってる場合じゃないよ! いいから早くこっちに来て!」
 オズはバティの手を取って強引に走り出した。
「ああ、分かった分かった! 行くから無理矢理引っ張るな、痛いだろ!」
 二人は大通りに飛び出すと、その通りに沿ってまっすぐ城の方へと走っていった。
 通り沿いの建物を通り過ぎ、その先に城の全容が見えてくる。それと同時に、外濠の手前を埋め尽くすように人垣ができているのも見えてきた。
「なんだ、こりゃ? 何かあったんか……?」
 走りながらバティは首を傾げた。
 物々しい雰囲気を感じさせる人々のどよめき。明らかに、ただ賑やかに騒いでいるのとは趣が違う。
 ざわめく人の波を強引に掻き分け、二人が人垣の前に飛び出したところで、彼らの目に驚くべき光景が飛び込んできた。
「フレイ! アネット!」
 バティが目をむいて叫び声を上げる。
 フレイとアネット、そして昨日見かけたあの少年の三人が、兵士達に引きずられるようにして城壁の上の通路を歩かされている。どう見ても連行されているとしか思えない光景だ。
 兵士に連れられた三人は、城壁の上をぐるりと回ると、その先にある尖塔の中へと連れ込まれていった。
 扉が閉められて彼らの姿が見えなくなると、濠を取り囲むようにして出来ていた人垣は、蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまった。
「ど、どうしよう、バティ! お姉ちゃん達、連れて行かれちゃったよ!」
「どうしようっつったって……!」
 二人がひどく狼狽して顔を突き合わせる。
 その時、二人に覆い被さるようにして一つの大きな影が差してきた。
 二人が驚いて見上げると、彼らの横に大きな剣を背中に携えた大柄の男性がたたずみ、そしてじっとフレイ達の消えていった城門を睨みつけていた。
「ふうむ」
 男は無精髭の生えた顎をさすり、一つ低いうなり声を上げた。
「あ、あんた、誰だ……?」
 バティが恐る恐る声をかけると、男は徐ろに二人に顔を向け、真摯な顔付きで二人に尋ねかけた。
「君達、さっきの少年達を助けたいと思うか?」
「あっ、当たり前だろ! 何バカなこと言ってんだよ!?」
「何があっても、後悔しない、文句は言わない、そう誓えるか?」
「…………」
 脅しにも似た男の文句。バティが思わず言葉を喉に詰まらせる。
「しないよ!」
 するとオズが威勢よく声を張り上げて返事をした。
「お、おう!」
 それを受けてバティも開き直った様子でせわしなく首を縦に振る。男は二人の返事に満足そうに頷くと、マントを翻して城とは正反対の方に身体を向けた。
「では私について来るがいい」
「え、でもそっちは城とは反対……」
「いや、こちらでいい。君達は黙って私に着いてくるんだ。さあ、行くぞ」
 そう言って男は勇ましい足取りで城下町を後にする方向へと向かっていった。他になす術を知らない二人は、何も言わず男に従い、彼に着いていくことしかできなかった。

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