第4章
ツタやシダに覆われたみすぼらしい外見とは打って変わって、遺跡の中は神殿のような荘厳で清廉なたたずまいをしていた。
「はー……めちゃめちゃキレイじゃん。何だよ、本当にここは打ち捨てられた遺跡だったのか?」
長い段差を登り切ったバティは、そこから足下を見下ろして呟いた。内部の通路は幾重にも複雑に入り組んで交差しており、その造りはさながら迷宮のようであった。
「その言い方は正確ではないな」
三階分はあろうかという長い階段の下に立って、オーエンが早く降りるようにと手招きをしてバティを呼んだ。それに従って、内部観察もそこそこにバティは眼前の階段を駆け下りていった。
「正確じゃないって、どういうことだ?」
遅れてオズも下りてきた事を確認して、オーエンはまた先へと歩き出した。
「実際にはこの遺跡は打ち捨てられてなどいない。以前から、この遺跡は特別施設として、密かにラインハットが使っていたのだ」
「特別施設? 何の?」
オズが尋ねると、オーエンは小さく頷いた。
「収監所だよ」
「収監所!?」
「うむ。主に、死罪を言い渡された重罪人や、政治犯・思想犯などを集めて収監していたらしい」
言葉の端を掴まえて、オズが不思議そうに目をしばたたかせる。
「……らしい?」
「もっとも、倫理上の問題がどうのという話になって、二十年ほど前に廃止になったそうなのでな。私も実際の事はよく知らん。場所は知っていても、こうして中に入るのも初めてだしな」
「その割には、随分自信満々に歩いてるじゃねえか。本当にこの道で大丈夫なのか?」
「うむ……」
オーエンが腕組みをして深く頷いてから足を止めた。
「実のところ、私は方向感覚には疎くてな。この道で正しいのかどうかは、全く見当も付かん」
思わずオズが脚をつんのめらせ、ふらついたバティが手近な壁にもたれかかる。
「バッ……キャロー!! それならそうと早く言いやがれ! 盛大に迷っちまったじゃねえか!」
バティがオーエンの襟元をつかんで揺さぶり、周囲を見上げた。そびえ立つ石壁、前に後ろに見える橋梁の様にせり上がった通路、右に左に折れて分かれる曲がり角……一体自分達が遺跡のどの位置にいるのか、この状況からではまったく想像ができなかった。バティは突き飛ばすようにしてオーエンの襟元から手を放すと、、荷物の中から紙とペンを取り出して、記憶を頼りに地図を作り始めた。オーエンは乱れた襟元を正して頭を掻いた。
「やれやれ、どうも君は怒りっぽくていかんな。もう少し大らかになってみてはどうだ」
「おじさんは大らか過ぎると思うよ……」
さすがのオズも愛想を尽かしてしまったらしい。すっかり弱り切ってオーエンが苦笑いを浮かべていると、オズはその横をすり抜けて、座り込んで地図を書いているバティを上から覗き込んだ。
「……何だよ?」
妙ににこやかな顔で覗き込んでくるオズの表情に気付き、気味悪がってバティが振り返る。
「んー、別に」
それでもにこにことオズは笑みを隠さない。
「だったら引っ込んでなよ。鬱陶しいんだからよ」
「はーい」
明るく返事をしてオズは一歩身を引いた。もう一度バティは振り返って見ると、相変わらずオズは笑ってこちらを見ていた。バティは一度身を震わせてから、再び黙々と地図を書き始めた。一時的に、その場から音が消えて静けさに包まれる。その静けさは、通路の左右から響いてくるひたひたという足音を聞き取らせるには十分なものであった。
「な……なんか、変な足音がするよ?」
不安になって、オズがオーエンの腕にしがみつく。
「嫌な予感がするな……。この足音、自然のものではなさそうだ」
オーエンは気を引き締めて剣の柄に手をやった。バティも直感的に危険を察知して、一切の道具をしまい込んでナイフを手に身構えた。
ひた、ひた、ひた……
息を潜めて、足音のする通路の先を注意深く窺う。ひたひたと、不規則なリズムを奏でて、足音は徐々に三人の元に近付いてくる。
「……来るぞ」
オーエンがかばい立てる様にしてオズを後ろに下がらせる。それと同時に、壁の向こうから、茶色く変色した足が、手が、崩れかかった顔が姿を現した。
「げえっ!?」
バティが思わず悲鳴を上げる。姿を現した三体の生ける屍、リビングデッドは、そのバティに掴みかかっていった。バティは慌てて飛び退いてその手から逃れると、振り下ろされたその手にナイフを突きつけた。切っ先が嫌な音を立てて腐肉に食らい込む。
「うげえっ、気持ち悪い!」
バティは顔面を蒼白にしてナイフを引き抜いた。抜かれたナイフには、おどろおどろしい色の体液と肉片がこびりついている。リビングデッドは、切りつけられたことなどものともせずに、再びゆらゆらとバティに近付いていった。
「く、来んじゃねえよ、この……っ!」
「うわあああっ!」
リビングデッドを近づけまいとバティがナイフを振り回していると、背後からオズの叫ぶ声が聞こえてきた。驚いて振り向いてみると、反対側の通路の先から、錆びた鎧を身にまとう、半ば白骨化したがいこつ兵が二体、鎧と同じように錆びだらけの剣を手にして近付いてくるのが見えた。
「ちっ……!」
オーエンが剣を抜いて、オズとがいこつ兵の間に割って入る。
「こっちは私が何とかする。そっちは任せたぞ」
「おっ、おい! 俺にこんな気味悪いヤツの相手をしろってか?」
「ならば、こいつの相手をしたいのか?」
とてもではない、剣を持った相手の方が手こずりそうである。バティは忌々しげに舌を鳴らした。
「ちっ、分かったよ! おい、オズ。お前も手伝え!」
「えーっ!」
「文句言うな! コイツらの仲間になりたいのか!?」
「わ、分かったよ……」
渋々頷いて、オズは手袋を締めた。
「くっそー!」
バティが悪態をついて、先程の一匹の胴体をナイフで切りつける。そうして怯んだところにオズの蹴りが入り、地面に叩き付けられたその一体は遂に沈黙した。だが、後ろにはまだ同じような死体が二体、何食わぬ顔をして待ちかまえている。
「うっげぇ……やってらんねぇよ」
迫ってくる相手をヒャドの呪文で追い返して、バティは顔をしかめた。
「大丈夫、バティ?」
オズがバティの青ざめた表情を見て気をやった。辺りに漂う腐臭と、ここまでに積み重ねられてきた疲労とで、吐き気を催してきたようだ。
「……平気だよ。俺の事なんかより、お前はあいつらの事を倒す事だけ考えてりゃいいんだよ」
「…………」
それから何を思ったのか、少し間を置いてから、オズは我が身も顧みず残りの二体の間に飛び込んでいった。揉みくちゃになって、噛みつかれ、引っかかれたりしながら、ものすごい形相をして、オズは二体のリビングデッドを強引にその場にねじ伏せた。
「はあっ、はあっ……」
倒した敵の中央で仁王立ちになり、大きく息を切らして目をぎらつかせるオズ。満身創痍のその体は、立っているのもおぼつかないような有様であった。
「おっ……おい、オズ……!」
初め危機迫るその様子に気圧されていたバティだったが、オズの体が大きくふらついたのを見て、慌てて駆け寄って彼の体を支えてやった。
「えっへへへ……どう、一人でやっつけちゃった」
しばらく呆然とうつろな表情をしていたオズは、ようやく気を取り戻すと、笑顔を作ってバティの顔を見上げた。
「何言ってやがんだよ! こんな無茶する馬鹿があるか!」
「だって、バティ、気分悪そうにしてたじゃないか。だから、僕が代わりに、一人で何とかしようと思って……」
息せき切って話すオズ。視点が定まらないのか、視線があてもなくふらふらとさまよっている。
「ああ、もう! 分かったから、少し黙ってな」
バティは腰の小袋から薬草を取り出すと、それを潰してオズの怪我のひどい部分に塗りつけた。
「…………っ! つっ……!」
「我慢しろ」
相当沁みるのだろう、オズが顔を歪めて身を揺らす。一通り塗り終わってから、バティは着ていた上着を脱いで、オズの肩にかけてやった。
「これで少し休んでろ」
「うん……ありがと」
人心地ついて、オズが再び顔を上げてバティの顔を見る。バティは視線を合わせまいとして顔を背けた。
「……お前にへばってもらっちゃ、こっちが色々と困るからやってんだよ。分かったか」
バティの態度がおかしくて、オズが小さく笑う。そこへ、がいこつ兵を倒したオーエンが戻ってきた。
「で、相変わらずアンタは大したケガもなしに、ホイホイ片付けて来ちまうんだな。こっちはもう、いっぱいいっぱいだってのによ」
「すまない。本当は私が君達の分も引き受けて戦うべきところなのだが」
「別にそんなこた、こっちだって気にしちゃいねえよ。それより、こいつら、いったい何なんだ?」
バティは、今し方自分達が倒した相手を見下ろした。
三体の腐乱死体と二体の骸骨。
おおよそ普通ならば、動く事すら想像も付かないような代物である。オーエンも不可解そうにそれらを見下ろして首を振った。
「分からん。私も、こうしたものや死霊を操る者の出る創作や史話を見聞きした事はあるが、現実としてこうして目にするのは初めてだ。話がすべて事実ならば、こうした死体を使役できる者は……」
オーエンが話を続けようとしていると、三人の後方から、先程と同じような足音が幾重にも重なって響いてくるのが聞こえてきた。
「……どうやら、彼らは、私達に束の間の休息を与えてくれる気がないらしい」
「…………マジかよ」
いい加減うんざりした様子で、バティが頭を振って呻いた。
「ここは、安全な場所を早急に探して、そこでやり過ごすしかなさそうだな」
「なんだ、逃げんのか?」
「そうとも言うな。どうだ、走れるか?」
バティがオズに視線を送る。オズは静かに首を縦に振った。
「ああ、いいぜ」
「よし、ならば行くぞ!」
言うなり、オーエンは駆け出した。バティとオズも、その後を追って懸命に走っていった。
それから少し時間を置いてから、軽く二十体はいようかというアンデッドの集団が、徒党を組んで通路を行進していった。
アンデッドの集団は、逃げた三人の進んだ道を着実に辿っていったが、やがて水路のある小部屋に差し掛かったところで彼らを見失うと、三人の姿を求めて散り散りに分散していった。
「なんてーかさ……すっげぇ、ヤバくね?」
集団が分散した小部屋に残って、その場でうろつき回る二体のがいこつ兵。その様子を石壁の隙間から覗き見て、バティが呟いた。
「さすがに、あれだけの数がいると、辛いものがあるな。相手が生き物ならばともかく、ああした連中は、完全に沈黙させるまで襲ってくるだろうからな」
「かといってよ、いつまでもこんな場所にいるのは、正直ゴメンだぜ」
石壁を閉ざしてバティが毒突く。壁が閉ざされて、隣の顔もよく見えないくらい真っ暗になったその空間は、三人が壁にへばりつくようにして立っているだけでもう余裕のない狭さである。
「最悪の場合は、私がおとりになる。その間に君達は逃げてくれ」
「馬鹿言ってんじゃねえよ。そんなコトしたら、今まで苦労してきたのが水の泡になるじゃねえか」
「それもやむなし、だ。誰か一人でも残っていれば、まだ可能性はある。それに、ここに連れてきた私の顔もある」
「そうは言うけどよ……!」
「ねえねえ……!」
バティが熱くなってオーエンに噛みつこうとした時、一番奥で静かにしていたオズが声をかけてきた。
「何だ、どうした?」
「そこに何かあるのか?」
バティからはオズの様子は何も見えないが、オーエンの言葉からするに、オズは壁の様子を探っていたようである。
「ここに耳を当てるとさ、何か聞こえてくるよ。さらさらー、って」
「さらさら……? 水音か?!」
「ふむ……?」
オーエンが体を少し動かして少しでも頭をオズの方に近づけ、後ろの壁に顔を当てて耳をそばだてた。
「確かに水音がするな。だがしかし……」
オーエンは後ろ手に壁を叩いてみた。決して厚そうではないが、それでも壁の固さは感じられた。とても力任せに崩せるとは思えない。第一、仮に崩せたところで、そこまで大きな音を立てれば、いくら鈍感な相手でも気付かれてしまう恐れがあった。
「壁越しに音が聞けるような薄さだったら、どっかその辺に開閉する仕掛けとかあるかもしれないぜ。ダメ元で探してみるか?」
「そうだな」
三人は狭いスペースの中で動かせる余裕を探しながら壁のあちらこちらを調べてみた。
「……無いよ?」
ある程度探し尽くしたところで、オズがため息をついて顔を上げた。
「ちっ、やっぱダメか。どうする? やっぱり力任せにやって……」
そこでバティはふと何かを思い出して、目の前の石壁の隅に手をやった。軽く横に壁を動かし、先程やっていたのと同じように、小部屋の様子がうかがえるような隙間を作る。
小部屋では先程の二体に加えて、一通り回って戻ってきたのか、リビングデッドが一体うろついていた。それらに気取られないようにして、バティは慎重に、引いた壁の収まっていた浅い溝に目を這わせた。
(……あった!)
隙間無く積み重なっていた石の中で、一つだけ浮ついていた石を見つけて、バティはそれを静かに押してみた。石はバティの手の動きに合わせて、奥へと押し込まれていく。よしと頷いて、バティは更に奥へと石を押し込んでいった。やがて、支えが外れたのか、ゴトンという大きな音とともに、石が奥へと落下していった。
(……げっ、マズっ!!)
バティが慌てて手を引っ込めて、小部屋に目を向けた。三体の怪物が一斉にこちらを向いているのが分かる。石はその間もどこかへと転がり落ちていき、けたたましい音を立てて彼らのいる場所から遠くへと離れていった。その音につられたのか、がいこつ兵とリビングデッドは示し合わせて、音の消えていった方角を目指して小部屋を後にした。
「し、心臓が止まるかと思った……」
小部屋に誰もいなくなったのを確認してから、バティはこっそりと壁を閉めて胸をなで下ろした。
「仕掛けはあったのか?」
「……ん? あ、ああ。それっぽいのはあったんだが……壁は開いてないのか?」
「うん、開いてないよ? あれ?」
反対側で、オズが足下に光を見つけて声を上げた。
「ここに手をかけられそうな場所があるよ。引いてみる?」
「何でもいいから早くやってくれ。いい加減疲れたんだよ」
「ん、分かった。せーのっ!」
オズが隙間に手をかけて力をかけると、三人が背中をつけていた一枚岩の壁がいとも軽快に横に開かれた。
「うわっ……!?」
あまり容易く開いたので、不意を衝かれたオズは背後の空間へと転がり落ちていった。
「おい、大丈夫か、オズ!?」
壁を完全に開け放って、二人もオズの元へと駆けつけた。
「う、うん……大丈夫。何ともない」
「そっか、よかった……」
「しかし、すぐ背後にこのような場所があったとはな……」
オーエンは顔を上げて周囲を見渡した。辺りには網の目のように水路が張り巡らされている。天井ははるか遠くにあり、壁がまったく無いこともあって非常にその空間が広く見えた。目の前の壁には、今彼らのいる場所から人一人分くらい高い位置に、先程彼らが身を潜めていた窪みがある。
「おっ、ありゃあ、何だ?」
バティが水路の入り口に小舟が繋留してあるのを見つけて、そこに駆け寄った。二人も様子を見ようと近付いていく。
「随分新しそうなシロモンだな。つい最近まで使われてたみたいな感じだぜ」
バティが、小舟や、小舟をつなぎ止めているロープの様子を見て言った。
「やはり、遠くないうちに、ラインハットから連れ込んできた誰かをこの奥に監禁していたようだな」
「誰かって……」
オーエンが頷く。返事を待つまでもなく、既に二人にも答えが見えていたようであった。
「早く行こうよ。この奥にお姉ちゃん達がいるんだよね!」
「よっしゃ、そうと決まりゃ、早速出発だ!」
三人は小舟に乗り込むと、バティは備え付けてあった櫂を手にして、ロープをナイフで切断した。櫂を回すバティの手の動きに合わせて、小舟がするすると水の上を滑り出す。
「うわー、すっごーい! 僕、こういうの初めてだよー!」
舟のへりに身を寄せて、オズが目を輝かせる。
「あんま暴れんなよ。転覆でもしたら三人揃ってお陀仏だからな」
バティは舟を漕ぎながら、視線をくまなく送って水路の広がり方を観察した。
「……んだよ、こりゃあ。まるで迷路じゃねえか。どっちがゴールだかも分かりゃしねえし」
あまりに途方もないその広がり具合に、バティがたまらず不満の声を上げる。
「まあそう文句を言うな。分からなければ手当たり次第探ればいいだけの事だ。それにしても器用だな。ボートの扱いには慣れているのか?」
「ん…………まあな。ガキん時からよく使ってたし」
歯切れの悪い返事を返すバティ。その様子を見て、オーエンはそこで話を切り上げた。
「ねえねえ、バティ。あっちの方に奥に向かってるっぽい場所があるよ。あっちじゃないかな?」
オズが左手を上げて広間の一角を指差した。
「おっ、ホントだ。やるじゃんか」
「えへへ」
バティはオズに言われた場所に繋がる道筋を探ると、その流れに沿って舟を漕ぎ始めた。最初に向かっていたのとは少し違う方角だったので少し遠回りにはなったものの、比較的短い距離でそこまで辿り着く事ができた。
「どうよ、このバティ様の腕前はさ。俺がいなかったら、こうスムーズにゃ進めなかったぜ? 特にコイツに任せてたらよ」
勝ち誇った様子でオーエンを見下ろすバティ。
「そうだな、確かに私だけなら迷っていただろうな。ありがたい事だ」
微妙にしゃくに障るような感じを覚えたが、バティもいい加減腹を立てない方がいいという事を覚えたのか、素直に受け取る事にして舟の操作を続けた。
舟はアーチ状の屋根の下を通って通路を抜けると、その先の小広間へと進み出ていった。
「あっ、あれ……!」
オズが指差す先にあったのは、紛れもなく鉄格子であった。見れば、広間を幾つかに仕切りったそれぞれの小部屋の入り口に、鉄格子がはめられている。
「おいおい、マジビンゴだぜ。すっげえな、オズ。てか、本当に牢屋があったなんてな……驚きだぜ」
「で、どこから探すの? 結構、数ありそうだよ」
最初の分かれ道の手前で、バティは櫂を突き立てて舟を止めた。
「どこから、っつってもなあ……」
念のためにオーエンの方に目を向けてみるが、その表情からは何かしらの回答を持っているようには見えなかった。
「……しらみ潰しに行けとさ」
「いいかげんだなあ」
オズは頭を垂れてため息をついた。
鉄格子に近いところで小さくうずくまってうたた寝していたアネットは、小さな音を耳にして顔を上げた。
「どうしたの、姉ちゃん?」
カデルがそれに気付いて体を起こす。
「今、何か話し声みたいなのが聞こえなかった?」
「声? 気のせいじゃないのか?」
「そうなのかなあ? 確かに聞こえた気がしたんだけど」
アネットが鉄格子に寄り添って耳を澄ませた。そうしていると、格子の向こう側にある水路の先から、聞き覚えのあるいくつかの声が聞こえてきた。
「今の声……バティか!?」
今度はフレイ達にも聞こえてきたらしく、二人は飛び起きて鉄格子のそばに駆け寄った。
『……ったく、しらみ潰しにって言うけどよ。この中からいちいち探せってのか? やってらんねーよ』
今度は耳を澄ませるまでもなく、はっきりとバティの声が聞き取れた。すぐそことまではいかなくても、どうやらそれなりに近くまで来ているらしい。
「おーい、バティ! いるのか!? おーい!」
フレイは鉄格子にしがみつくと、目一杯声を張り上げて呼びかけ始めた。
「ちょ、ちょっと、お兄ちゃん!?」
「ここまで来てどこか行かれたら困るだろ! だったら、あの声がバティだと信じて呼ぶしかない!」
「……! バティ、今の声……!」
叫ぶフレイの声は、舟の上の三人にしっかりと届いていた。
「あっちだな、よし!」
バティは大きく頷くと、ここぞとばかりに力を込めて舟を漕ぎ出した。舟はぐんぐんと速さを増して水路の上を滑っていく。
「こっちだよ、バティ!」
「わーってるって! お前こそ、落っこちんなよ!」
スピードに乗った船がバティの櫂の動きに合わせて、大きく旋回する。すると、分かれ道の先に連なる鉄格子の一つに、一対の手がしがみついているのが見えた。
「あそこか!」
バティが速度を落としつつ、舟を鉄格子の前まで運ぶ。
「バティ!」
「フレイ!」
鉄格子を挟んで互いの姿を認めて、バティとフレイが互いに相手の名を呼び合った。バティが櫂を立てて舟を止めると、オズとオーエンが舟を下りて鉄格子の前に駆け寄った。
「待っててよ、フレイ、お姉ちゃん! 今開けるから!」
オズは鉄格子を握ると、全力を込めて扉を揺さぶった。しかし、格子は頑丈に錠がかけられていて、いくらやっても開く様子がなかった。
「ダメだぁー、開かないよ……」
音を上げてオズがへたり込んだ。フレイ達の顔が自ずと落胆に沈む。
「私に任せろ」
オーエンは服の袖をまくり上げると、オズを下がらせて格子を強く握りしめた。そして目を瞑ると、数回、深く深呼吸をして集中を始めた。
「……ふんっ! ぬおおおおおおおおおおおおっ!!」
地を揺さぶるようなうなり声を上げて、オーエンが鉄格子を揺さぶり始めた。格子の継ぎ目がぎしぎしと音を立ててひずんでいく。
「……ふんぬうっ!!」
そして最後に一際大きくオーエンが怒声を上げると、大きく歪んだ格子の蝶番がけたたましい音とともに弾け飛んだ。
「さあ、開いたぞ。出てくるがいい」
「す、すごい……」
その様子を間近で見ていた誰もが唖然と声を漏らす。オーエンが何度か揺さぶって完全に格子を外すと、中にいた三人は牢屋から外に出てバティの待つ舟のもとに歩いていった。
「……おいおい、この舟に六人も乗せるのか?」
バティは全員の顔ぶれを見渡して目をしばたたかせた。今彼が乗っている舟の大きさを見る限り、四人までなら何とかなりそうなのだが、さすがに六人も乗せると重みで沈没しそうである。
「一人や二人多いくらい、大丈夫だろう。問題ない」
「あんたは余計な口挟まんでくれ! しゃーないな……どっか途中で降ろして、二回に分けて運ぶか。ったく、何で俺がこんな……」
ぶつぶつと文句を言いながら、バティはまずオーエンとアネット、カデルを乗せて運び、途中で見かけた広い中州に三人を降ろしてから、もう一度牢屋の前に戻ってきた。
「悪いな、バティ。何度も気を遣わせて」
舟を漕ぎ出したところで、フレイはバティに頭を下げて謝った。
「謝るとこはそこじゃねえだろ、って言いたいところだけどよ……まあ何にせよ助かったんだからいいじゃねえか。それより、ちゃんと謝るべきヤツに謝っとけよ」
「……誰に?」
フレイがわけの分からない様子で首を傾げる。それを見てバティは頭を抱えてため息をついた。
「もういい。勝手に悩んでろ」
ますますわけが分からなくなって、フレイが眉を寄せ頬を掻く。
「ほんと、ニブいなあ」
「ほっとけほっとけ。あんま首突っ込むと、バカがうつるぞ」
バティの言い草に、鼻に障るものを覚えたが、何を言い返したら分からずフレイは頭を下げて黙り込んでしまった。
三人を乗せた舟が中州に戻ってくると、その間に待っていた三人が中州から出る道を見つけたらしく、彼らをそちらへと案内し始めた。
途中、何度か徘徊していたモンスターに出くわすことはあったが、数が少ないこともあってか、オーエンがそれらをすべて追い払ってくれた。
の、だが。
「オーエンさん、大丈夫ですか? 怪我とか、ありませんか?」
「あーっ、ダメですよ、オーエンさん。そっちじゃなくって、こっちです」
「いけません、オーエンさん。それに触っちゃいけません」
道すがら、事ある毎にアネットはオーエンに声をかけていた。大したこともないのに傷を魔法で治したり、違う道に逸れようとする前に回って引き留めたり。お陰で余計な事に巻き込まれないで済むのはありがたいのだが……
「お兄ちゃーん。お姉ちゃんを獲られたもんだからヤキモチ妬いてんのー?」
最後尾からその光景をむっつり顔で見ていたフレイを、オズが肘で小突いて揶揄する。
「ばっ……! 何言ってんだよ! 別にアネットの奴が何してても……」
「ふーん……アネットのヤツ、ああいうのが好みだったんだな。意外だな」
バティが何気に言った一言で、フレイは黙り込んだかと思うと、彼らを押し退けて先頭の二人の間に割って入っていった。
「……兄ちゃんどうしたの。なんか凄く怒ってるみたいだけどさ」
状況の飲み込めないカデルが首を傾げる。しかし、バティとオズは、それには何も答えず、顔を見合わせて含み笑いを交わした。
結局、フレイが間に入ってちょっと文句を言ったところで何かが変わるわけでもなく、同じ調子で彼らは遺跡の中を出口に向かって順調に進んでいった。
「なんか退屈だよな。モンスターはおっさんが片付けてくれるしよ、なんかこう、パーッとド派手なアクシデントでも無いもんかな」
後方で、バティが頭の後ろで手を組みながらうそぶいた。
「もう、そんな事言って。本当に何かあって慌てても知らないわよ?」
「ここまで何もなかったんだ。今更あるわけねー……」
バティの言葉が終わる直前、遺跡の入り口に続く通路の手前で、オーエンが足を止めた。
「……何? 何かあったの?」
オーエンがただならぬ様子で通路の先を窺っているのに気付いて、オズが不安そうに尋ねる。オーエンは少しだけ振り向いて、口元に人差し指を当てた。
「気配がする。モンスターじゃない、人間の気配だ」
「まさか、ラインハットの……!」
オーエンを除く五人が、寄り添って軽く身を震わせる。オーエンは小さく頷いてから、首を伸ばして先の様子を更に窺い始めた。
「……五、十……まずいな。これだけいると、さすがに私でも辛いな」
「それじゃあ……!」
「大丈夫だ。ここに呼んだ手前、どうにかしてみせる!」
そう言うと、オーエンは剣を振りかざして通路の先へと飛び出していった。
「いたぞ!」
「いいか、怪我はさせても殺すんじゃないぞ! 生かして捕らえろ!」
俊敏に反応した兵士達とオーエンが剣を交える。巧みな腕で一人、また一人と退けていくものの、さすがに多勢に無勢か、オーエンはじりじりと押し下げられていった。
「オーエンさんっ!」
後を追って飛び出そうとするアネットを、オズとバティが慌てて抑える。
「ちょ、離して! 離して!」
「お、お姉ちゃん、落ち着いて!」
「そうだ! 俺達が出ていっても何か出来るワケじゃないんだ! おとなしく隠れてろって!」
「でも、でも……!」
「おい、あそこにもいるぞ!」
アネットの姿を見つけた兵士の一人が、彼女を指差して叫んだ。
「やばいっ! 見つかったぞ!」
「くっ……!」
オーエンは舌打ちをすると、目の前の兵士を蹴り飛ばして、首から提げていたペンダントをむしり取って、思い切りそれをアネットに向けて投げ飛ばした。
「……! これは……?」
「ラインハットに伝わる、何があっても所有者を守ってくれるという言い伝えの首飾りだ! それを持って早く逃げろ!」
「そんな……! オーエンさんを置いて逃げるだなんて、私……!」
「おい、アネット! あいつがいいって言ってるんだ、早く逃げるぞ!」
「いや、嫌よ! 私は嫌!」
何をいくら言おうとも、アネットは頑なに首を振ってその場から離れようとしない。
「おい、何をしている! 早くあいつらも捕らえるんだ!」
指揮官と思しき兵士の合図で、数人の兵士が、目の前の数人で手一杯のオーエンの横をすり抜けてアネット達のいる方へと走ってくる。
「まずい、このままじゃ、また捕まるぞ!」
絶望してバティが頭を抱えて喚く。アネットはそれでも動かず、ペンダントを握りしめて、近付いてくる兵士たちを鋭く睨みつける。
その時、
──キィィィィィィ…………ン……!
「きゃあっ!」
「うわっ!」
「な、何だ!?」
アネットの体が、いや、アネットの手にしていたペンダントが、突如目もくらむようなまばゆさの青い光を放ち始めた。
光は辺り一帯を瞬く間に飲み込んだかと思うと、すぐさま勢いを失ってペンダントに吸い込まれていった。次の瞬間、ペンダントは小さな音を立てて崩れ、アネットの目の前に先程の光と同じ色の巨大な渦が浮かび上がった。
「なんだこりゃ?」
バティが変な物を見る目つきをして、その渦にゆっくりと手を伸ばした。
「!? うわわわっ!」
バティの腕が肘まですっぽり渦に埋もれたかと思うと、彼の体はあっという間に渦に飲み込まれ、その場から跡形も無くいなくなってしまった。
「……バ、バティ……?」
顔を蒼くしてオズが渦の向こうに声をかけてみる。返事が返ってくる様子はない。
「た、食べられ……ちゃったの?」
「……旅の扉か! 早く君達もその中に飛び込め! その渦がどこか遠くへ君達を運んでくれるはずだ!」
状況に気付いてオーエンが叫ぶ。その声は当然、足を止めていた兵士たちの耳にも届いていた。
「早くしろ! あいつらを逃がすな!」
「まずい! 行くぞ、みんな!」
慌ててフレイが、カデルが、渦の中へと飛び込んでいく。
「お姉ちゃん! 早く!」
一歩、また一歩と兵士達が近付いてくる中、それでもやはりアネットは首を横に振って動かなかった。
「ダメ、私はここに残る!」
「何言ってんだよ、お姉ちゃん! 早くしないと、捕まっちゃうよ!」
いくら説得してもアネットの足は動かない。このままでは兵士たちに捕まるのはもうすぐである。オズは目を瞑って頷くと、アネットの背後に回って彼女の腰に腕を回した。
「……お姉ちゃん、ゴメン!」
一言謝ってから、オズは床を蹴って自分もろともアネットを突き飛ばした。
「きゃあっ!?」
無理矢理押し出されるような形で、二人が渦の中に飛び込む。二人の姿が完全に渦に飲み込まれると、渦は回転を速めつつ急速に縮んで消えてしまった。兵士たちが辿り着いたときには、その場には渦も、人間の姿も、全てが消え失せた後だった。
オーエンはそれを確認すると、安堵の表情を浮かべて手にした剣を足下に投げ捨てた。
「残念だったな。彼らはもうこの場から離れた場所にいることだろう。これでもう、私に抵抗する理由はない。好きなようにするがいいさ」
険しい表情で周囲を囲む兵士達、その輪の中央でオーエンは誇らしげな顔をして彼らを挑発した。
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