第2章

▼ANNET▲

 慣れ親しんだフレミーノの町を出て、もうすぐ一週間。目の前一面に広がるまだ青々とした芝は、昨日までの雨でどれもぐっしょり濡れている。
「ふう、やっと雨が上がったか。おい、アネット。やっと外に出られるぞ」
 小さなほら穴の入り口。その向こうから、何日ぶりかの明るく眩しい朝日を背に受けてお兄ちゃんが戻ってきた。
 いつもお寝坊さんなお兄ちゃんが、ここしばらく毎日のように私よりも早く、まだ日も昇らないうちから目を覚まして辺りの様子を見に回っている。最近のお兄ちゃん、なんだか随分張り切っているみたい。
 ……もしかして、私がこんなだから?
 それでお兄ちゃんに気を遣わせてるんだったら、無理にでも明るく振る舞った方がいいのかしら? でも、中途半端にそんなことしたって、お兄ちゃんには見抜かれちゃうだろうし、そうしたらそうしたで、きっとお兄ちゃんにもっと気を遣わせちゃうだけだよね。
「おい、アネット。起きてるか?」
 うん、起きてる。
 まだ薄布を被って横になっていた私は、それを押し退けて体を起こした。
 この薄布は、雨に打たれる中このほら穴を見つけたその日に、お兄ちゃんがどこからか見つけてきたものだった。その時、お兄ちゃんは旅をするにあたって便利そうだったからと、他にもいくつか道具を持ってきていた。お兄ちゃんが言うには、何者かに襲われたらしい馬車があったそうで、そこからちょっと拝借してきた物らしい。
 調理用のナイフに、頑丈な箱に収められたほくちがたくさん、ちょっと高そうなランタンと、その油が四日分。さっきまで私が被っていたような布地の類もたくさんあった。私達の体格に合った服もいくつかあって、お兄ちゃんはこれで着替えだって心配ないぞ、って笑いながら言ってたけど……誰が着てたのか分からないような服を、まさか着るつもりかしら?
 お兄ちゃんは他にもその馬車でいろいろ見つけてきたらしいけど、必要になりそうな物以外は置いてきたらしい。どうも、それなりにお金のある人達が乗っていた馬車みたいだったようで、娯楽小説の類まであったらしい。娯楽小説なんて、私達庶民からすれば相当な贅沢品。それが中にあったのなら、確かにそうなのかもしれない。ちょっとだけ読んでみたかった気もするけれど……あの雨じゃあ濡れて読めたものじゃなかったかもしれないわね。
「さあ、起きたんなら朝飯にでもするか。毎食毎食これじゃあ、いい加減飽きちゃうかもしれないけどさ」
「ううん、気にしてない」
 お兄ちゃんはほら穴の奥から何かの動物の大腿部らしきものを引き出すと、その一部を切り裂いて先程つけたたき火の炎でそれを焼き始めた。
 食料も何も持っていなかった私達は、食事をお兄ちゃんが手に入れたこのお肉に頼るしかなかった。馬車の中には食料らしき物もあったらしいけど、どれだけ日が経っているか分かったものじゃないから持ってこなかったらしい。
 目の前のお肉がじゅうじゅうと肉汁を垂らし煙を上げる。……正直、これが何のお肉か気になるところはあるけれど、それは聞いていない。聞いたところで食料はこれしか無いことは分かっているし、それに、聞くのが恐かったから。
「ほら、アネット」
 お兄ちゃんが焼き上がったお肉を渡してくれる。私はそれを受け取って口にした。町を出るまで口にしたことのないような味だけど、別に悪い味ではないと思う。お兄ちゃんは自分の分のお肉を切り取ってくると、それを火にかけた。
「ここを出て町に向かうとあったら、こいつは置いてく必要があるな。なあ、アネット」
「何?」
「くん製って、どうやって作ったらいいか教えてくれないか?」
「くん製?」
 くん製、って……あの? 私もあんまり作ったこと無いけれど、やり方くらいなら知っている。でも、それを聞いてどうするのかしら?
「食料を調達しながら行ったんじゃなかなか進めないだろ? だから、こいつをちょっとくん製にして持っていこうかと思ってるんだ」
 ……そういうこと。
 私は食べかけのお肉をもう一度眺めてから頷いた。
「じゃあ、木の葉とか集めてこないといけないわね」
「そっか。じゃあ、ちょっと行ってかき集めてくるか」
「ううん、それくらいだったら私がやってくる。いつもお兄ちゃんばっかり動いていたから、私にやらせて」
「……そっか? じゃあ、気をつけろよ」
「うん」
 頷いた私は、残りのお肉を平らげてからほら穴の外に出た。
 朝の光がすごく眩しい。本当に随分と久しぶりのお日様の光を浴びた私は、外に出たところで大きくのびをした。
 雨上がりの強い草いきれの臭い。それさえも、何日もほら穴の中に閉じこもっていた私には清々しく感じられた。
 さっきの言葉には、半分嘘も混じっている。お兄ちゃんばかりに動かせては行けないと思っていたのも事実だけど、何か少しでも身体を動かしていないとますます気が滅入っちゃいそうな、そんな気がしたから。
 雨上がりの肌を刺すような冷えた風が吹き付けてくる。私は羽織っていたケープの襟元をつかんで体を震わせた。まだ春が始まったばかりのこの時候、薄着でいるのは少々辛いくらいの寒さが残っている。だからこの時期は私はいつもこのケープを身につけている。
 まだ小さかった頃に、お兄ちゃんとお揃いで作ってもらった手織りのケープ。やんちゃなお兄ちゃんはもらったその日に破いちゃったけど、私はずっとこのケープを宝物のように大事にしている。
 これがあるかぎり、お兄ちゃんがいつもそばにいてくれる、そんな風に思えてくるから。
 私はもう一度大きく息を吸い込んで、ほら穴のすぐ上に広がる林の中へと入っていった。

 どうか、何事もありませんように。

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