第2章

 降り続いた雨によって足止めを食っていたフレイとアネットの二人がオラクルベリーの街の入り口に辿り着いたのは、フレミーノの町を飛び出してからおよそ十日経った日の正午になる少し前のことだった。
 近年のオラクルベリーは人口増加が過剰に進行しており、道の左右を所狭しと建物が埋め尽くすなんとも暑苦しいたたずまいになっている。そのひしめき合う建物の群れは、街の外壁付近にまで迫り迫ってきており、もはや街の入り口の門さえ建物の一部とかしてしまってから早五年の月日が経っている。中に住まう人間の数も多ければ、それにも増して街を出入りする人間の数は計り知れず、門が閉められる夜にでもならないかぎり、街の入り口はいつも大量の人間でごった返している。その半分はこの街で商売をしている、あるいは商売を始めようとする商人とその付き添いの人間で、残りの半分のうちのほとんどは、オラクルベリーの中央に悠然と立ちそびえる娯楽施設、カジノで一儲けしようと夢見て訪れる者達である。もともと交通の要所でないはずのこの街が大きく繁栄を得たのは、カジノのおかげである分も多大にあるだろう。
 発展した町は次第に勢力を広げ、今では街専用の港湾と、そこにつながる地下道が作られている。オラクルベリーは名目上はラインハットの一都市であるものの、その経済力は一つの国家を成り立たせるのには充分なものがある。事実、ラインハットから届けられる品物の一部には、関税までかけられているものすらある。その大半は武器や防具といった類の品物で、都市内の産業を守る為にやむなく設定されたものである。

 そのオラクルベリーの南側に設けられた門を含む建物の行列の中から、フレイはその行列の連なる先を時々顔を出しては眺めていた。
「どう、お兄ちゃん?」
「こりゃ、駄目だな。こんなペースじゃ、中に入るまでに丸一日かかっちゃうよ。くっそー、さっきっからするする流れているこっちの行列に加えさせてもらいたいくらいだぜ」
 フレイは忌々しげな目つきで隣の行列を見つめた。確かに、その行列を成す者達は普通に歩いているのと変わらない速さで前に進んでいる。それに対して、今彼らが並んでいる行列は先程から一向に進む様子が見当たらない。
「でも、それは無理でしょう? 私達、この街の人じゃないし」
「分かってるよ! だから我慢してこのちんたらちんたらした行列に並んでるんじゃないか!」
「そんな、私に怒らないでよ……」
「あー! ったく! こんなこったなら、いっそのことオラクルベリーなんか通り越してアルカパまで行ってた方がよかったかもしれないよ!」
「無茶よ。アルカパまで行く途中で、きっと私達倒れちゃうわよ」
 周りの迷惑顧みず、二人が揉め合いを始めてしまった。しかし、アネットの言っている事の方が正しいだけに、フレイは分が悪い中をしきりに叫ぶことに終始している限りである。
「あれ?」
 その途中でアネットが何かに気付いたらしく、少し目を丸くして小さな声を上げた。
「どうした?」
「あれ、何かしら?」
 フレイはアネットが指を差した先に目を向けた。
 行列の前の方から鎧に身を固めた男二人が、行列を成す人間一人一人と話をしながらこちらに近付いてくる。その様子からして、多分街の門を見張る兵士だろう。しかし、その兵士達が一体何をしているのか、二人には見当が付かなかった。
「何をやってるんだ?」
「さあ? 何かいろいろと聞いているみたいだけど……あ、こっちに来た」
 あと少しで自分たちの所までやってくるというところで、二人の兵士のうちの一方が列の途中を飛ばして彼らの元にやってきた。その手には帳面のようなものが握られている。
「一体何をやってるんですか?」
 いてもたってもいられず、兵士がやってくるなりフレイはその兵士に問いかけた。
「現在最前列の方で監査が手間取っていますので、後の作業を円滑にするために簡単に出身と目的を聞いて回っているところです」
「はあ、そうですか」
 なんだかよく分らないが、とりあえず頷いてみる。
「それで、あなた方はどのような目的で来られましたか? 観光ですか?」
「いえ……ああ、いや……まあ、そんなところです」
 何と説明したらいいか思い当たらなかったフレイは、適当に兵士の質問に答えておくことにした。兵士もその辺は承知しているらしく、何も気にすること無しに帳面に書き付けると、次の質問を突き付けてきた。
「それで、出身は? ラインハット? アルカパ? レヌール?」
 矢継ぎ早に問いかけてくる兵士に二人は思わず身じろぐ。
「い、いえ……」
「それじゃあ、どこ?」
「フレミーノ、です……」
「フレミーノだって!?」
 帳面を取り落とし、裏返った声を上げる兵士。それに応じるように、にわかに周囲がざわめき立つ。何が起こったのか、何ゆえ騒がれるのか分からなかった二人は、あたふたと辺りを見渡した。その二人の手首が、目の前にいる兵士につかまれる。
「あ、あの……」
「な、何でしょうか……?」
「ちょっと君達、こっちに来なさい!」
「え、ええっ!?」
 兵士は列の中から二人を引きずり出すと、そのまま列の前方に向かって二人を引っ張っていった。
「ど、ど、どうしよう、アネット……俺、何かとんでもないことを言っちゃったみたいだ」
「わ、私に聞かないでよ……」
 ざわめく行列の人間の声を受け、焦燥感にかられるフレイ。アネットに至っては今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「いやいや、お騒がせして申し訳ない。まあ、まずはそこにかけてくれたまえ」
「は、はあ」
 フレイとアネットの二人は、机の向こうの男に促されるがまま、革張りの椅子の上に腰を下ろした。固すぎず、柔らかすぎず、丁度いい座り心地の椅子だった。それなりに値段の張るものではないだろうかと思える。
 椅子に座ってから二人はお互いに顔を見合わせ、それから前方の男に顔を向けた。
 おそらく年の頃は五十前後。白髪の混じった黒く短い髪と豊かな口髭を持った、少しばかり体格のいい壮年男性で、先程二人を連行した兵士と同じように、軽式の鎧で身を固めている。
「ところで、僕達はどうしてにここに連れてこられたのでしょうか?」
「まあ、そう身構えないで、気楽にしてくれ。君達にとって不都合になるようなことは何もないから」
 そうは言われてもなかなか不安を拭い去れない二人は、なんとも居心地の悪い感触を引きずったままでいる。
「さて、君達はフレミーノから来たということだが、それならば今フレミーノの町がどのような状況にあるかは分かっているよね?」
 フレミーノの現状。その言葉を聞いた二人の表情が曇る。二人の返事を待つまでもなく、男は容易に答えを感じ取ることができた。
「まあ、そういうわけで、だ。我々オラクルベリーの方から、その件に関して調査隊をフレミーノに派遣したのだが……」
「ど、どうなっていました?」
 フレイが椅子から立ち上がって男に聞き返した。町を出て、振り向くこともなく真っ直ぐオラクルベリーに向かってきたので、彼は町がどうなったのか心の底から知りたがっていた。しかし、男は口を閉ざすと首を小さく横に振った。
「それがまだ戻って来ていないのだよ。頃合としては昨日、一昨日あたりに戻ってきてもおかしくない筈だったのだが」
「それなら、まだ何かの不都合で遅れているだけとも考えられますね」
「だと良いのだが……」
 少しの間、部屋の中が静まり返る。その間にフレイは心を落ち着けて椅子に座り直すことにした。そして彼は隣で座る妹の顔色が優れないことに気が付いた。
「おい、アネット、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
 声をかけてみたが、アネットは振り返る様子が無かった。気になった彼はもう一度彼女に声をかけた。
「アネット?」
 それでようやく気付いたらしく、彼女は弾かれるように体を揺らしてフレイに顔を向けた。
「……え、あ、何、お兄ちゃん?」
「いや、だから……顔色悪いみたいだけど、大丈夫か、ってだな……」
「あ……うん……ちょっと長旅で疲れてるのかもしれない」
「それならば休んだ方がいいかもしれないね」
 二人の間に、男の声が押し入ってきた。二人は揃って男の方を向き直した。
「宿は既に部下に手配させてある。少し君達に聞きたいことと協力してほしいこととあるのでね、それでよければと思ったのだが」
「あ、そうだったんですか。……だと。どうする、アネット?」
「ん……どの道私達、何の目的も無くここに来たんだし、少しくらいのことはいいんじゃないかしら。お言葉に甘えましょうよ」
「そうだな。それじゃあ、そういうことで、お願いします」
 フレイが承諾の返事を送ると、男は頷いて何かを書き始めた。
「宿の場所はここに書いておいた。君はそこに行って今日のところは休んでおくといい。明日以降の細かい事は彼に話しておくことにするから、彼が戻ってきたら訪ねるといいだろう」
「はい。どうもすみません」
 アネットは男が地図を書き記した紙を受け取ると、重い足取りで部屋を出て行った。フレイはアネットが部屋を出た後も、その扉をじっと見つめていた。
「気になるかね?」
「い、いえ、そんな事は……」
「いやいや、隠さなくてもいい。大事な身内を気にかけるのは当然のことだ。さて、それより、まず君に聞きたいこととして、フレミーノの町で異常が起こったその日に何があったのかということからだが」
 フレイはあるがままを男に話した。町の方々から幾度となく爆発が繰り返されたこと、魔物が暴れ回り町を破壊したこと、その結果として町が大火に包まれたこと。
「そうか、フレミーノでもその様な事が起こっていたのか」
 男が目を閉じて深く息をつく。その顔つきは何かを考えているようであった。
「でも……とは?」
 フレイは男の言葉に引っかかりを覚え、そこを問い返した。男の方もそれは予想していた事であったらしく、脇に置いてあったファイルから一枚の紙を取り出した。よく見ればこの辺りの地形を描いた地図である。
「君達は知っているかね? 半月ほど前にラインハットに向かう馬車が魔物に襲われたという話は」
 何度も聞いた噂話、それが男の口から飛び出した。フレイが思わず息を呑み喉を鳴らす。
「はい、聞いたことくらいは。それは、本当の話なのですか?」
「もちろんだ。見たまえ」
 男が地図を指差した。フレイが視線を落とすと、男の指が半島の入り口にある端の上に置かれているのが見えた。
「その馬車はこの橋の手前で襲われた。レヌールからの馬車で、このオラクルベリーで荷の積み替えをした後、交易品をラインハットに送る途中だったそうだ」
「この馬車が襲われなければならない、という理由はあったんですか?」
 フレイが尋ねると、男は黙って首を左右に振った。
「分からない。だが、積み荷が荒らされていた以上、その可能性は大いにある。そのあたりの詳しい話はまた明日、先程の妹さんと二人揃った時にでもしよう」
「そうですか」
「すまないね、迷惑をかけてしまって。旅の疲れもあるだろう、今日はこのあたりにして、宿でゆっくりと体を休めるといい」
「あ、はい、それでは」
 フレイは席を立って部屋を出て行こうとした。
「フレイ君、だったね」
 そして入り口のノブに彼が手をかけたところで、男が不意に彼を引き留めた。何事かと思い振り返ると、男は机に肘を突いて笑っていた。
「妹さんを大事にしたまえ」
 フレイは顔をかっと赤く染めると、何も言えずにただ頷いただけで部屋を後にした。

 

「自警団長室」と書かれた扉を後にしたアネットは、その部屋にあった建物も背にして、ふらふらとオラクルベリーの街並みを歩いていた。時折、街角を歩く人達が、彼女のことを見ては内証話を始める。どうやら先程の騒動を実際に目の当たりにした人達なのだろう。
 外から見たときのごちゃごちゃとしたオラクルベリーの街の雰囲気は、街の中に入っても変わらなかった。街の敷地を直線的に区分する道の間を、猫一匹鼠一匹通る隙間もないほどに密着して建物が並んでいる。その建物も平屋建てなどはほとんど無く、その大半が三、四階建てのブロック塀の建物である。その中には、昼間なのに入り口も窓もすべてが堅く閉ざされていたりするものもある。
 あまりにも建物が密着しているので、日の当たる道はまったくと言っていいほど見当たらない。精々が街の東西を走る道と、街のシンボルたるカジノの前から門まで一直線に延びる大きな通りくらいである。賑やかなのはいいことだが、甚だ健康に悪そうな街並みである。
「ふう……」
 アネットは一つ重いため息をついて、部屋を出たときに手にした紙を取り出して眺めた。歩いた道順を正しく記憶しているのならば、そこにある宿からはかなり離れたところまで来てしまったことになる。そもそも、建物を出て左に曲がらねばならぬところを右に曲がっている時点で、本来の場所とはまったく違う方向へと向かってしまっているのだ。
 アネットは紙を袋にしまうと、自分の周囲を見回した。道の左右で、たくさんの店が威勢よく物を売り合っている。八百屋、魚屋、花屋と日常的な店から、武器や防具を売っているような店までが、何の秩序も無く無造作に並んでいる。
(……あれ、あそこは、何かしら……?)
 アネットはそこでふと奇妙なたたずまいの一角に目を向けた。ともすれば小さな路地裏とも取れなくもない、人一人がようやく入れるような細い建物の隙間の奥薄暗い場所に、申し訳程度に設えられた机とおぼしきものがあり、その向こうで何かを前にして小柄な人間が座っていた。あまりに暗い場所ゆえ、それ以上のことは何も分からない。普通の感覚を持った人間ならば気味が悪くなって避けたくなるような場所。しかし、彼女は何かに引きつけられるように、その場所へと足を向けていった。
 通りから一歩足を踏み入れるとすぐ、目の前が先程までに比べてひどく暗くなった。よく見ればわざと光を遮るように天幕が張られている。彼女は注意を配らなければ転んでしまいそうな薄暗さの中を歩いていく。すると机の向こうの人間が彼女に気付いたらしく顔を上げた。
「なんだい、お嬢ちゃん。冷やかしかい?」
 上がったのはかなりしゃがれた、老婆の声だった。周りの雰囲気と相まって、その声色はとても不気味に聞こえた。
「いえ、違うんですけど……」
「じゃあ、なんだい? 嫌がらせかい? 何をされてもあたしゃここから立ち退かないよ」
「いえ、ですからそうじゃなくて……」
「それじゃあ何しに来たんだい?」
「お婆さん……ですよね? こんな場所で、何をしているんですか?」
「ふん、どこで何をしてようとあたしの勝手じゃろう」
 老婆はしわだらけの手を差し出して、アネットのことを追い出すように何度も前後に振った。
 しかし、その手の動きが不意に止められる。
 そして老婆は座っていた椅子の上に立つと、机に手をつけて彼女のことを凝視し始めた。なぜそうされるのか分からなかった彼女は、思わず後ろに身を反らした。
「あ、あの……」
 一体どうしたのかと彼女が尋ねる前に、老婆は一つ呻いて再び椅子に腰を落とした。
「……それで、お嬢ちゃんや。あたしがここで何をしているのかだって?」
「……え? あ、はい……」
「こいつを見れば分かるじゃろう、占いじゃよ」
 老婆は相変わらずぶっきらぼうに言い放つと、自分の目の前に置かれたものを両手で示して見せた。人の顔ほどもある大きなそれは、見るも希なほどに巨大な水晶玉であった。
「あ、そ、そうですね……」
 攻撃的な老婆の物腰に押され、アネットは力なく頷いた。
「時にお嬢ちゃんや、占いはひとつどうじゃ?」
「え? でも……」
「ここまで首を突っ込んできたんじゃ、嫌とは言わせんぞ。さあ、始めるぞえ」
 アネットの物言いもまったく聞かず、老婆は勝手に占いを始めてしまった。不可思議な動きを見せる老婆の手に合わせて、水晶玉が淡い光を帯び始める。水晶玉の放つ様々な色合いはとても幻想的で、アネットは次第にそれに見とれていった。
 やがて、水晶玉は先程までより強い光を一つ放つと、元の静かな様子へと戻っていった。
「ふーむ……お嬢ちゃんは何か特別な光を帯びておったぞい。それと、お嬢ちゃんの隣にもう一つ、お嬢ちゃんとは違う特別な光が一つ見えとった。二つの光の後ろで無数の星がきらめいておる。不思議な眺めじゃ」
 老婆の言うことを、アネットは身を乗り出し、何も言わずただじっと聞き入っていた。そして老婆は椅子の上に立って水晶玉の向こうから彼女を見下ろした。
「ともかく、まずはこの街で最も賑やかな場所に行ってみるとええ。とまあ、見えたのはここまでじゃな……ほれ」
 机に両手をついて前屈みになっていたアネットの目の前に老婆の右手が差し出された。
「え……?」
 我に返ったアネットが身体を起こして老婆を見上げる。
「見料に決まっておるじゃろ」
「で、でも……」
 そっちが勝手に占いを始めたんじゃないのか、と言いたくとも言えず、アネットが慌てふためく。すると老婆は差しだした手を引っ込めて笑いだした。
「ふぉふぉ、冗談じゃよ。元々老い先短い婆の道楽。それにお嬢ちゃんはまたと見れないべっぴんさんじゃ、特別に金なんぞは取りゃせんよ。今朝の占いにも出ておったしの」
「今朝の……?」
「お嬢ちゃんが来たらただで占ってやれ、とな。ふぉふぉふぉ……」
 あ然となって立ちつくすアネット。彼女が来るということは、この老婆には既に知れていたことらしい。
「ほれ、先の占いでどこに行ったらええか分かったじゃろ? じゃったらこんな婆に付き合っておらんと、さっさと行くがええ」
 椅子から飛び降りた老婆は、まだ動けないアネットの背中を押し、強引に彼女を通りへと追いやってしまった。それでも少し呆気にとられていた彼女だったが、やがて老婆の言ったことを思い出すと、通りを行く人の流れの中へと歩みを進めていった。
(オラクルベリーで最も賑やかな場所っていったら、カジノよね。でも、あのお婆さん、カジノで何をしろって言うのかしら? 遊んで気を紛らわせ、っていうこと?)
 とても遊ぶだなんていう気にはなれない彼女は、カジノに向かうかどうかで悩み始めた。
(でも、行かなかったらせっかくのお婆さんの行為が無駄になっちゃうし、それに、遊べとは一言も言ってなかったから……とりあえず行くだけ行ってみよう)
 彼女は暫く考えた後でそう決心すると、教会の前の曲がり角をカジノへ向かうように左へと曲がっていった。

 カジノはオラクルベリーのほぼ中心部にある。浅いほりに囲まれたとても広い建物で、外周を歩き回るだけで軽く小一時間はかかる。ほりの周囲には様々な花の咲く花壇があり、初春の頃の現在はまだつぼみの花が多いが、もう少しすればこの花壇は色とりどりの花で鮮やかに彩られることだろう。
「この花、見たことのない花ね。ベニツユクサにも似てるけど……がくの形がちょっと違うし、それに今は秋じゃないから……」
 カジノの入り口まで辿り着いたアネットは、その花壇の花を少し物色してから、ためらいの見える足取りで、巨大な建物の中に入っていった。
「すご……い……」
 中に入ったアネットはそのあまりの賑やかさに暫く呆然として身動きができなかった。あちらこちらの人だかりで飛び交う喧噪と怒号、やや向こうに見えるたくさんのスロットマシーンの奏でる軽快な鐘とコインの音。マシーンのコーナーの向こうにあるステージでは見目麗しい踊り子達が軽快な踊りを披露しており、そのすぐ右手にはこの環境の中で不思議に落ち着いた雰囲気のバーがある。
(すごく、賑やか……まるで、世界中のお祭りを集めてきたみたい)
 アネットはひどく場違いな場所に自分がいるような感じがすると、おぼつかない足取りで右手をつけた壁に沿ってカジノの中を歩いていった。
「今じゃ、行けー! 差せー!」
 そしてアネットはすぐ近くにあった人だかりの中で、周囲の者達に負けじ劣らず威勢のいい怒鳴り声を上げる一人の老人の姿を見つけた。気合いを込めて握られ、上げ下げを繰り返される拳の中から、ぐしゃぐしゃになった紙切れの端が見えている。なんとなくその老人の様子に興味をそそられたアネットは、壁から離れてそちらへ向かうことにした。
「あの、お爺さん……」
「うるさい! 今いいところなんじゃ、話しかけるな! ほれ、行け、行けー!」
「きゃ……!」
 老人の振り上げた拳がすんでのところでアネットの顔に当たりそうになる。アネットは驚き身をそらしつつも、そこに書かれていた文字を目ざとく読んでいた。
(3……−5……?)
 老人の隣に一人入れるかどうかといったくらいの隙間があったので、アネットはそこに身を収めて、老人と同じ方向を向いた。
 下方に深く掘られたスペースの中に、線を引かれて八つに仕切られたコースが作られていて、そこでカラフルに彩られたスライム達が懸命に右端にあるゴールを目指して競走をしていた。スタート地点とゴール地点には1から8までの番号が振られている。
(さっきの番号って、このコースのことかしら? 3と、5は、えっと……)
 3コースと5コースを見つけたアネットは、その先をコースに沿ってゴール方面へと目で追いかけた。そのコースを走っているスライムは、二、三着を争っていた。一番先頭を走っているスライムは6コースを走っていて、二着にいる3コースのスライムがそのすぐ後方にいる。ゴールはもう間近で、とても追い越せるような気配は見られない。さらに、後ろでは1コースを走るスライムが5コースのスライムを追い越そうとスピードを上げて走ってきている。もしかするとあと少しの間に追い抜かされてしまうかもしれない。
 アネットはそれを確認すると、改めて隣の老人の様子を見た。
「何やっとるんじゃー! 差さんかー!」
 老人はそれでも懸命に応援を続けている。しかし、その応援だけで状況が変わるわけでもなく、結局レースの結果はアネットが見た時点での順位と変わらなかった。
「なんじゃ、また外れかい! お前さんが話しかけるからじゃ! お前さんのせいじゃ!」
「え、私?」
 老人に八つ当たりされて驚き慌てるアネット。周囲の者達はまただよと言わんばかりの目線を二人に向けている。アネットは老人の周囲がなぜ空いていたのかがよく理解できた。
「で、でも、私、何も……」
「何もしてないはずないじゃろ! あんたが声をかけるからあいつらの気が散ってレースに集中できなんだんじゃ!」
「そ、そんな、ここからじゃ、あそこまで聞こえないですよ、きっと」
「いいや、絶対にそうじゃ! そうに決まっておる!」
「……あ、あの、次、始まるみたいですよ、お爺さん……」
 聞き分けのない老人の注意を逸らそうと、アネットは先程レースが終わったばかりのコースを指差した。
「おお、そうか?」
 老人がそれにつられてコースの方を向く。アネットもとりあえず老人の怒りから解放されたことにほっと胸をなで下ろすと、自分もコースの中に目を向けた。スタート地点に並んでいる八匹のスライムが、銘々小さく跳ね回っている。
「ふうむ、さっきの6枠の憎々しい奴の様子がああじゃったからのう……とすると今回は4−6じゃろうな」
 老人はその中で元気よく飛び回っている二匹に目をつけると、券を買いにカウンターに向かっていこうとした。
「あの、お爺さん」
「なんじゃ!」
 またアネットに声をかけられたとあって、老人は苛立ちの声を上げた。
「早くゴールする子を当てればいいんですよね? だったら、4番と6番の子よりは、1番と8番の子の方がいいと思うんですけど」
「1−8じゃと!? 馬鹿言うんじゃない! よく見んかい、1−8は超大穴じゃぞ!」
「でも……」
「でももへったくれもないわい!」
「じゃあ、一枚だけでも」
「…………本当に一枚だけじゃぞ。少しのコインでも安くないんじゃからな!」
 やけに執拗に懇願するアネットに負け、老人は渋々妥協すると、チケットカウンターに足を運んだ。それからアネットはスタート地点の上にある「倍率表示」と書かれたプレートに目を向けた。アネットの言った「1−8」の横には「×350」という数字が書かれている。
(ペケの横の数字が一番大きいみたいだけれど、それって一番有利ってことじゃないのかしら?)
 賭け事のいろはも分からない彼女は、なぜ先程あれだけ老人が渋っていたのかさっぱり分からず、首を小さく傾げた。そこへ老人が戻ってくると、ぶっきらぼうにアネットに一枚の紙を手渡した。
「ほれ」
「?」
「あんたの賭けた奴じゃ。こいつが負けたらお前さんに十コイン分、二百ゴールド支払ってもらうからの」
「え……?」
 紙を受け取ったアネットの上げた小さな声は、高らかに鳴るファンファーレの音でかき消されてしまった。ファンファーレが鳴り終わり、ゲートが開くと、八匹のスライム達は一斉に枠から飛び出していった。
 アネットの予想した両端のスライム達の出だしはあまり芳しくはなかった。全行程の十分の一も行かないうちに、他の六匹との差はかなり開いてしまい、誰の目にもこの二匹が入賞することはありえなかった。
「ほれ見い! お前さんの言った二匹はてんで遅いじゃないか!」
「でも、まだ始まったばかりですけど……」
「始まったばかりであんだけ開けば無理に決まっておろう!」
 老人は彼女の相手をするのも面倒だとばかりに、勝手に自分の賭けたスライムの応援を始めた。
 レースの波乱は、先頭の一匹が残り三分の一に差し掛かってきた頃に起こった。
 どういうわけか前方を行くスライム達が失速し、その間に勢いを上げた端の二匹が一気に差を詰めてきたのだった。端の二匹が快調に飛ばす一方で他の六匹は思うように進めず、気が付けば端の二匹が僅差ではあったものの先頭に立っていた。やがてその二匹は周囲の悲鳴と嬌声に包まれつつも、先頭を切ってゴールゲートへと入っていった。
 結果は1−8。配当350倍という、史上希に見る大穴中の大穴である。あちらこちらから怒りと落胆の声が上がり、一種の喧噪を作り出していた。
「あの、お爺さん……」
 アネットは大口を開けて呆然としている老人に声をかけた。老人は暫く驚きから立ち直れなかったが、やがて興奮した面持ちでアネットの手を取った。
「ほ、ほんまじゃ! ほんまに当たりよった! 大穴じゃ、超大穴じゃ! ……あ」
 激しくアネットの両手を上下に揺さぶっていた老人は、彼女の手に握られたチケットに気付いて目を見張った。
「お、お嬢ちゃん、半分……いや、五分の一でええから、配当をワシにくれんかのう……?」
 そして先程までの態度はどこへやら、老人は深く頭を下げてアネットに懇願を始めた。そのあまりの変わりように再び慌てふためくアネット。
「い、いえ、元々お爺さんのですから、これは。はい、どうぞ」
 アネットは老人の頭を上げてやると、手にしたチケットをその手に握らせた。
「ほ、本当か! 後で返せって言っても駄目じゃぞ!」
「え、ええ……」
「そうか、そうか! それじゃあ換えてくるからの! ちょっと待っておれ!」
 そう言って老人は元気にカウンターへと走っていった。
(あのお爺さん、すごく興奮してたけど、どうしてかしら?)
 まだ自分のしたことに気付いていないアネットは、コースを眺めてまたもや首を傾げた。

 

 それからもアネットは老人の賭け事にしばらく付き合い、結局最初に老人が渋々ながらも賭けた十コインの元手は数千枚に膨れ上がっていた。
「いやー、こんなに勝ったのは初めてじゃ。愉快、愉快!」
 満面の笑みと共にカジノを出る老人。アネットもそれに付き添うようにしてカジノを後にした。
「本当によかったですね。それじゃあ、私はこれで」
「ちょっと待たんかい」
 老人の元を去っていこうとした彼女に声がかけられる。この声がかけられた時はあまりろくな事がなかったと記憶していた彼女は、思わず引きつった顔を老人に向けた。
「な、何でしょうか……?」
「今日勝ったのはみんなお嬢ちゃんのおかげじゃ。そのお礼もさせてくれんと行ってしまうつもりかい?」
「そんな、お礼だなんて。私、そんな大したことしてませんし」
「何を言っとるんじゃ。あれを大したことと言わんでどうする? ともかく礼をさせてくれんとワシの気が済まんのじゃよ!」
「そうですか? それじゃあ……」
 あまり頑なに断るのも失礼だと思った彼女は、老人の申し入れを受けることにした。
 すると老人は彼女の手を取り、歳相応に見えないほど速く走り始めた。あまりに速く走るので、初め着いて行けなかったアネットは少しつんのめったまま引きずられるように走っていくしかなかった。
 二人はオラクルベリーの通りを右へ左へ駆け抜け、やがて街の最も南西の角地にある建物へと辿り着いた。その建物は小さいながらも綺麗で洒落た感じがしており、周囲の建物と比べると少し高級そうな佇まいに見えた。
「ここに住んでいるんですか、お爺さん?」
 その建物を見上げて、アネットは老人に尋ねた。老人は自慢するように腕組みをして頷いている。改めて彼女はその建物を見て、驚嘆のため息をついた。そして、なるほど老人の道楽にしてはカジノは高すぎると思えば、そういうことだったのか、と納得してみる。
「さて、遠慮せず入るがええて」
「はい、それじゃあお言葉に甘え……て……」
 老人に付き添って建物に入ろうとしたアネットは、そこで思わず言葉を失った。
 見れば老人は建物の入り口ではなく、そのすぐ脇にあるなんとも小汚らしい下り階段を一歩下りたところで手招きをしていたのだった。
「ほれ、何をしておる。早く来んかい」
 少し呆気にとられて動けなかったアネットだったが、しびれを切らす老人の声に押されて、よろめくように狭く暗い階段を下りていった。
「ところでお爺さん」
「ん、なんじゃ?」
「どうしてさっきからそんなに疑り深そうに何度もあちこち見回しているんですか?」
 ともすれば足を取られてしまいそうな、そんな暗い階段を下りながら、アネットは先程から神経質に辺りを見渡しながら先を歩く老人に尋ねた。
「よくぞ聞いてくれたの。実はな、この先には……悪魔が住んでおるんじゃ」
「あく、ま……?」
 耳元で囁かれた言葉に、アネットは怪訝な声を上げた。
「そうじゃ、悪魔じゃ。それも史上希に見るほど凶悪な悪魔じゃ」
「ど、どうしてそんなのがこんな場所にいるんですか?」
「それには深い訳があっての……」
「おじいちゃん! こんな時間になるまでどこをふらついていたの!?」
 アネットとの話ですっかり油断していた老人が階段を下りきったあたりで、ひどい剣幕の女性の怒鳴り声が上がった。
「きゃっ!」
「のおっ!?」
 二人は驚き、揃って飛び上がるとその場で尻餅をついた。
 階段の向こうにある部屋から一人の女性が姿を現すと、まだ驚きから立ち直れずにいる二人の元へとやってきた。
「な、なんじゃ、イナッツ。そんなに大声を上げよってからに」
「なんじゃ、じゃないでしょう! 今まで一体どこに行っていたの、おじいちゃん!」
 イナッツと呼ばれた女性は、腰に手をあてがい仁王立ちになって、まだ座り込んでいる老人のことを見下ろした。その視線にすくみ上がった老人が小さく縮こまる。
「いや、だから、それは、じゃの……」
「どうせまたカジノなんでしょ! うちの家計は決して楽じゃないのよ! そんな所にお金を寄付してあげてる余裕なんて無いのよって何度も何度も口が酸っぱくなるくらい言ってるじゃない! それなのにどうして分かんないのよ!」
「た、たまには勝って帰ってくるぞい」
「たまに、じゃなくて希に、じゃない! 第一、勝ったところでお金にならないでしょ! それからなに、誰が悪魔ですって!?」
 思わぬ言葉がイナッツの口を突いて出ると、老人は驚いて目を丸くし顔を上げた。
「き、聞こえておったのか……?」
「あんな足音が何重にも響くような階段でどんなに内証に話したところで聞こえてくるに決まってるじゃない! ほら、おじいちゃん、自白しなさい!」
「い、いや、あれは悪魔もひれ伏すほどに快活じゃという意味で言ったんじゃよ」
「嘘!」
 侃々諤々、繰り広げられる二人の激論を前に、アネットは階段に座り込んだまま呆然としている。その間に彼女は、先程から老人を相手にどやし続けているイナッツという女性の容姿を見つめた。年齢はアネットと同輩か、数年上かといったところ。少し赤みのかかった黒髪は天然なのかカールがかかっており、思い思いの方に飛び上がっている。猫目ほどにはないにしてもかなり切れ上がった感じの目つきと、髪と同じ色の太い眉が、いかにも快活そうなイメージを引き出している。背丈は平均的な女性と比べると大柄な方で、アネットより一回りくらい高そうである。よく育った体つきは背丈だけにとどまらず、豊満そうな胸が重ね着された衣服の下からでもこれでもかと言わんばかりに張り出している。全体的にすれているといった印象は見当たらず、どちらかと言うと元気な魅力がはちきれん程に溢れている、そんな感じの女性であった。
 アネットが暫く二人の様子を観察していると、そこでイナッツが初めてアネットの方に目を向け、それまで怒りに引きつっていた顔をあっという間に緩めて、彼女に明るい笑顔を送った。
「ごめんなさいね、おじいちゃんのわがままに付き合ってもらって。迷惑だったでしょう?」
「いえ、そんな」
「ほら、おじいちゃん!」
 イナッツは再びきつい目つきになると、足下で膝を抱えてうずくまっている老人を軽くつま先で蹴り飛ばした。
「こりゃ、老人はもっと大切にせんかい!」
「何言ってんのよ! おじいちゃんが迷惑かけたんだから、早く謝りなさいよ!」
「そんなのはもう済ませたわい! じゃから、こうしてお茶でもと思って連れてきたんじゃよ」
「なんだ、おじいちゃんにしては珍しく気が利いてるじゃないの。ほら、それだったらぼやぼやしてないでさっさとお茶をいれてきてよ」
「ワシがいれるんかい? イナッツや、お前さんが……」
「……ん!?」
「……ワシがいれてくるですじゃ」
 イナッツの鋭い眼光に射すくめられた老人は、小さく肩を落として部屋の奥へと引っ込んでいった。哀れな老人の後ろ姿を見送ってから、イナッツは再び笑顔になってアネットの方に向き直った。
「ほんとにごめんなさいね。今すぐお茶をいれますから、どうぞゆっくりしていってくださいね」
「え、あ、はい……あ、いえ、お構いなく……」
 自分でも何を言っているのだかさっぱり分からないまま、アネットは座り込んでいた階段から立ち上がり、イナッツに導かれて奥の部屋へと入っていった。部屋はかなり広々としており、普通の民家の倍近くはありそうなほどの敷地がある。雰囲気的には地下室特有の無骨な無機質さがあるが、それを除けば比較的過ごしやすそうな環境である。彼女の導かれた部屋はどうも居間にあたるらしく、中央に四人がけの真四角のテーブルがあり、その各脇に一脚ずつ、計四脚の椅子が置かれている。部屋には他に本棚なども置かれていて、その中にはたくさんの古びた本がしまわれている。四つある部屋の壁にはそれぞれに扉が一つずつ作られており、彼女が入った入り口の扉を除けば、それぞれが何かしらの部屋につながっているようだった。
「どうぞ、ここにかけて下さい。狭いところで申し訳ありませんけど」
「そんなことありませんよ」
 アネットはイナッツに勧められるまま、椅子に腰を下ろした。そしてイナッツがその彼女の向かいに腰掛ける。
 それから渋々老人が入れたお茶を持ってくるまでの間、若い娘二人は話に花を咲かせていた。アネットにとって、歳の近い女性と親しく話す事自体久しぶりだったので、何だかそれがとても新鮮に感じられた。
 話していくうちに、彼女は今まで自分の中で渦巻いていたわだかまりが晴れていくような気がしてきた。それは、イナッツの話口の影響もかなりあったかもしれない。彼女が口を一つ利く度に、なにやら明るい気持ちが芽生えてくるのである。そう考えると、イナッツという女性にはとても不思議な何かがあるように思えてくる。
 そして、老人がいれてきたお茶が机の上に置かれる。
「ちょっと、どうして私のお茶が無いのよ?」
「なんじゃ、飲みたかったんなら最初からそう言わんかい。どうしても欲しければあとは自分で……」
「……ん!?」
「……ワシが入れてくるですじゃ」
 またもやすごすごと奥の部屋へ引っ込んでいく老人。そんな二人のやりとりを見て、アネットが小さく笑いをこぼした。随分長い間彼女が忘れていた笑いである。
 そして、テーブルの上に並べられた三つのお茶を前にして三人の顔が揃うと、老人が唐突に奇妙な話を切り出した。
「ところでお嬢ちゃんや。お前さんからは何か不思議なものを感じるのう」
「不思議なもの……ですか?」
 それを聞いたアネットは、不意にお茶を飲む手を止めた。アネットの表情から先程までの明るさが失われる。いつでも明るく活気に満ちているイナッツも、すっかり顔色を失っている。
「そうじゃ。お前さんは他の人間には無い、何かがある。カジノでワシと話しておった時の言動からいささか気になってはおったのじゃが……」
 賑やかだった部屋の中が瞬く間に静まり返る。三人それぞれの目の前で立ち上る湯気をしばらく眺めてから、老人は静かに口を開いた。
「レースのスライムを『あの子』呼ばわりしておったが、お前さんは魔物を思いやる気持ちに溢れておるようじゃの」
「それが、不思議なもの……ですか?」
「いや、違う。不思議なものはお前さんの目じゃ」
「目……?」
 老人の言う意味がよく分らずにいたアネットは、不思議だと言われたその目をしばたたかせた。
「あなた、もう一度よく顔を見せてくれないかしら?」
 そこへイナッツが身を乗り出してきた。彼女は言われるまま、向かいに座るイナッツに顔を差し出した。
 まじまじとこちらを見つめるイナッツ。アネットは彼女の不思議に大人びたその眼差しにふわふわと包まれるような感触を覚えた。
(私には……イナッツさんの瞳の方が不思議なものを帯びているような気がするけど……)
「……澄んだ瞳」
「……え?」
 ぼうっとしていたアネットは、不意に上がったイナッツの声に驚きの声を返した。
「深い海の底のような、どこまでも澄んだ瞳。あなたのその瞳を見ているだけで、どんな思いも溶かされてしまいそう」
「…………」
 アネットはただ何も言えずじっと黙ったまま、ただ息を潜めてイナッツの言葉を聞き留めた。その横では老人が腕を組んで感慨深げに何度も頷いている。
「……でもね」
 イナッツはアネットの顔を覗き込むのをやめて身を引いた。アネットもそれに合わせて椅子に座り直す。
「さっきこの話を始めた時、あなたの瞳、すごく濁ってたの」
「え……」
「お前さん、そのへんの事で何か悩み事でも抱えておるんじゃないか? よかったらワシらに話してもらえんかのう?」
 アネットは随分ためらった後、町を出る直前に我が家で起こった出来事を二人に話した。
「……だから、私、すごく怖いんです。私は一体何なのか、魔物さんの本当の思いが、何もかもが分からなくなってしまって……」
 二人、同じようにひどく真摯な顔つきで腕を組み低く長く呻く老人とイナッツ。
「そうか……お前さんには魔物使いの素質があるようなのじゃが……」
「……魔物使い?」
「じゃが、お前さんの心には今は深い傷があって、それが邪魔をしておるようじゃの」
「ゆっくりと、傷が癒えるのを待ちましょう。大丈夫、あなたのしてることは何も間違っていないから。だから、自信を持って。ね!」
 イナッツはアネットの肩や頭を叩きながら彼女のことを励ました。些細な慰めだったが、アネットはそれだけで随分と元気を取り戻せたような気がした。
「はい」
 アネットはひとつ頷くと、おもむろに席を立った。
「なんじゃ? もしかしてもう帰るのか?」
「はい。随分長いことお邪魔してしまいましたし、そろそろ宿の方に戻らないとお兄ちゃんが心配するかもしれないので」
「お兄ちゃん!?」
 突然イナッツは叫び声を上げると、乱暴に椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
「そのお兄ちゃんって、あなたのお兄ちゃんよね? 歳、いくつ? ひょっとしてあなたとおんなじで、すんごい美形だったりとかしない?」
 アネットの元に駆け寄り、興奮してまくし立てるイナッツ。
「え……お兄ちゃんは、私よりひとつ上ですけど。顔は……私とはあまり似てませんけど……町ではお兄ちゃんのことを追いかけていた子が二、三人いたような気が……」
 アネットの説明を受けながら、イナッツはうんうんと鼻息も荒く頷いた。
「ねえ、アネットちゃぁん。私とあなたって、すごく気が合うような気がするのよね。だから、あなたのお兄さんにも自己紹介しておきたいの。ねえ、着いていってもいいかしら?」
「おい、こら、イナッツ……!」
「おじいちゃんは黙ってて!」
 引き留めようとする老人をイナッツは一喝する。老人はたまらずその場で小さく丸まってしまった。
「え、ええ、それは構いませんけど……それじゃあ、一緒に行きましょうか、イナッツさん」
「ありがとー、アネットちゃん! あなたってほんとにいい娘ね、私感激しちゃう!」
 手を叩き、妙に甘い声を上げるイナッツ。アネットはそんな彼女を引き連れてその場を後にした。

 

 自警団の団長である男と話を済ませ、ようやく自由になったフレイが自警団の詰め所になっている建物から出た時、オラクルベリーの街並みはほのかなオレンジ色に染められていた。
「あー、やっと自由に動けるな。なんだか、なんにもしてないのにもう付かれた気がするぞ。くっそー、アネットのヤツ、一人先に抜け出しやがって。明日は引きずってでもあいつを連れてってやるからな」
 フレイはぶつぶつ一人で文句を言いながら、先程自警団長からもらった一枚の紙切れを取り出した。アネットが先に退出する際にもらったものと同じ内容、彼らが兄妹のためにとっておいてくれたという宿のある場所が書かれたものである。街の南門を入ったところから左手に曲がり、三軒ほど建物を行った先の小道を右に入ってすぐのところにある建物だそうである。
「さってと。今日はとっとと宿に行って寝ることにするか」
 フレイはその紙を乱暴にポケットに押し込むと、大通りを真っ直ぐ宿に向かって歩いていった。
「ほぉ……ここか」
 目的の宿に着いたフレイは、その様子を見て嘆息した。オラクルベリーの街にしては珍しい三角屋根を頂いた、割合シックな外見の三階建ての建物である。入り口は小道に入った奥にあったが、建物自体は大通りに面している。ただし、大通りに面した部分の一階は商店になっていて、現在は時間帯ゆえか閉まっており、何を扱う店かは詳しくは分からなかった。
 フレイは宿の扉を開けると中へ一歩踏み込んだ。
「いらっしゃいませ」
 それと前後して建物の中から男の声がした。建物を入ったすぐのところがフロントになっていて、そこで二人の男性が正装をして立っている。
「申し訳ございません、当宿は只今満室になっておりまして、ご予約を承ることができません」
 二人の男性のうち一方が、フレイの姿を見て深々と頭を下げる。
「あ、いや……俺はボソム自警団長の紹介で来たんだけど」
「そうでございましたか、これは申し訳ありません。只今ご確認をいたしますので、しばらくお待ち下さいませ」
 フロントの男性は部屋帳を取り出して名前の確認を始めた。 フレイはその間、なんとも落ち着かない様子でフロント全体を眺めた。外見同様、シックな造りで、その雰囲気を増長するように灯りがやや薄暗く見える程度に灯してある。
「フレイ様とアネット様の二名様でございますね。二階の二〇三号室になります」
 フレイはフロントで部屋の説明を受けると、階段を上ってその部屋へと向かった。
「ふい〜、疲れた……おーい、アネット。寝てるんだったらそろそろ起きろー、もう夕方だぞー。すっかり疲れ切ったお兄ちゃんと交代してくれ〜……」
 文句たらたら、嫌味たらたらな声を上げて、フレイは目的の部屋の扉を押し開いた。通りに面したその部屋は、明かりを灯さなくてもまだそれなりに明るかった。それゆえに、部屋の内部は一目見ただけで判然がいった。
「……いない」
 部屋は閑散としていて、宿の者達の手で丁寧に手入れが成された状態のまま、少しも使われた様子がなかった。アネットが持っているはずの小さな荷袋も見当たらない。フレイは慌てて部屋を飛び出して、フロントへと駆け下りていった。
「どうかなさいましたか、お客様」
「今日、俺達の部屋にまだ誰も来ていないか?」
「はい、誰もお越しになっておられません」
「俺と同じくらいの歳の女の子は来てないのか?」
「お連れ様のことでしょうか? それでしたらお目にかかっておりませんが」
「そ、そうか……すまない!」
 フレイはアネットが宿に来ていないことを確認すると、大急ぎで宿から賑やかな街の中へと飛び出していった。
(どういう事だよ! あれからアネットのヤツ、こっちに来てないって!? 一体、あいつ、どこに行っちまったんだ!?)
 フレイは焦りを募らせてオラクルベリーの町中を駆け回り始めた。
 初めは食料品などを扱う店が多く立ち並ぶ商店街を一軒一軒廻りながら見て廻った。それから、衣料品店や小物を取り扱う店々もしらみつぶしに当たった。彼女が最も立ち寄りそうな場所の心当たりが尽きると、次は酒場を巡り始めた。もしかしたら、そこに彼女の姿を見かけた人がいるかもしれない。そう踏んだのだが、それも空しい結果に終わった。
「まさかな……」
 酒場も回りきってすっかり夜も更けてしまった頃、フレイはまだ回っていないひとつの巨大な建物を前にして呟いた。
 オラクルベリーを象徴する建物、カジノである。
 それでもフレイは少しの可能性を頼りに、カジノの中へと駆け込んでいった。
「うおっ!?」
 中に入ったフレイは、中のあまりの賑やかさに思わずのけぞった。陽が沈んだ後のカジノは、昼にも増して訪れている者の数が多く、場内はさながらパーティー会場のような雰囲気になっていた。フレイはカジノを埋め尽くす人の波をかき分けながら、場内を隅から隅まで探し回った。しかし、ここにも妹の姿は見当たらない。今頃アネットはイナッツを引き連れて宿に向かっているのだから当然の話なのだが。
「参ったな、ここにもいないとすると、一体どこにいるっていうんだか……」
「なんだと! もういっぺん言ってみやがれ!」
 すっかり弱り切ったフレイがスロットマシーンの横で頭を掻いていると、すぐ近くで若い男の怒号が上がった。
 見れば、バーのある一角でフレイと同じくらいの年の頃の少年が中年風の男と向かい合い口論をしていた。周囲の視線も、同じようにその場所へと集められる。
「っせえな、おめえみてえなションベン臭えガキが気取ったマネすんじゃねえって言ったんだよ!」
 中年男性は少し舌の回らない口調で怒鳴り返した。どうやら泥酔しているらしい。
「何だって!? 誰がションベン臭えガキだ!」
 少年は怒りも露わに腕をまくって中年男性に歩み寄っていく。さらに周囲の客達がどよめき立つ。よく分らないがとにかく止めた方がいいと思ったフレイは、その場へと駆け寄ると二人の間に割って入った。
「な、何だにーちゃん!?」
「何すんだよ、あんた! そこ退けよ!」
 驚いた二人は、当然のごとく非難がましい目つきをフレイに向けた。
「こんな場所で喧嘩はしない方がいいと思って止めに来たんですけど……」
「よけいなお世話だ! こら、この手を退けろ!」
 少年はさらにいきり立ってフレイを退けようとしたが、その前に差し出された腕に阻まれて思うように身動きが取れなかった。
「そうだ、俺達の邪魔すんなよ、にーちゃん。それともなんか、俺に一発へこまされてえのか?」
 男の方もどうにも解せないらしく、座っていた丸椅子から立ち上がって指を鳴らし始めた。
「俺は騒ぎを立てない方がいいって言ってるだけじゃないですか。それなのに……」
「うるせえっ!」
 なんとかして言って聞かせようとしたフレイだったが、その言葉が終わる前に男の拳が彼の顔目がけて打ち出された。フレイは反射的にその拳を受け流すと、降り出されたままの男の腕を取り、そのまま軽快な動作で男の身体を担いで床に投げ下ろした。加減をして投げたので衝撃はそれほど無かったが、それでもバーのある一角が少しだけ揺らいだ。フレイは床に寝そべる男の身体を押さえるように軽く踏みつける。
「やめてもらえませんか?」
 そして彼は先程までとまったく変わらない調子で男に問いかけた。男はしばらくいまいましげに彼のことを見上げていたが、やがて小さく舌打ちすると、
「…………わーったよ! やめりゃいいんだろ!? だから離しやがれ!」
 仕方なく諦めの声を上げた男からフレイは手を離すと、その男はまだいまいましそうな表情で立ち上がり、服に付いた埃を払い、まだどよめきこちらを眺めているカジノの客達を乱暴にかき分けながらその場から立ち去っていった。
「とりあえず、これで落ち着いたかな」
 男が立ち去ったことで周囲の注目も逸れると、フレイは先程の悶着で倒れてしまったバーの丸椅子を元の位置に立て直した。そして、先程まで自分が抑えていた少年を見やる。少年はだらしなく口を開けたままフレイの事を見ていた。そんな彼にフレイは一つ笑いかけた。
「何があったか知らないけれど、喧嘩するのは良くないと思わないか? 変に角を立てるくらいだったら、少しぐらいのことは腹に収めて丸く終わらせた方がいいと思うけどな、俺は。ま、そういうわけで、それじゃ」
「待ってくれ!」
 軽く手を振ってその場から立ち去ろうとしたフレイを、少年が引き止めた。少年に背中を向けていたフレイが今一度振り返る。
「何? もしかして、まだ気に入らないとか?」
「そうじゃない! なあ、あんた、かなり腕が立つみたいだな! 少し俺の話に付き合ってくれないか!」
「話?」
 フレイは一つ唸った。
「悪いけど、俺、今そんなに暇じゃないんだ。ちょっと人を探してるもんだからさ」
「人探し、だと……?」
「ああ。俺と同じくらいの年の頃の女の子で、頭にこんな形の髪飾りをつけてるんだが」
 フレイは指で、アネットがいつも身に着けている髪飾りの形を示して見せた。
「ん、うーん……それってもしかして、さっきまでスライムレースを荒らしまくってた姉ちゃんじゃないか?」
「知ってるのか!? 見たのか!? どこに行ったんだ!?」
 驚いたフレイは、少年の肩に掴みかかって怒鳴るように尋ね掛けた。
「その姉ちゃんだったら……モンドっていう偏屈爺さんに捕まってたから、爺さんの家に行ったんじゃねえか? でも、随分前になるしな……」
「な、なあ、そこに案内してくれないか?」
「別にいいが……ただし、条件が一つある」
「条件?」
「後で俺の話を聞いてくれ。んで、できるかぎりそいつに乗ってくれ」
「わ、分かった! 何でも聞くから、早く案内してくれ!」
「よし、任せな! おっと、俺はバティって言うんだ、よろしくな」
 そう言うと少年、バティはにまっと笑い、フレイを引き連れてカジノから出て行った。

 

「……やっぱり、いない」
 ボソムに予約をしてもらった宿の部屋に辿り着いたアネットは、閑散としている室内を見つめてぼそりと小さく呟いた。
「うわー、すっごい……こんなに広いのにダブルルームだなんてもったいなすぎるくらい。これだけスペースがあれば軽く五、六人は寝泊りできるじゃないの。ねえ、もしかしてアネットちゃんって、相当のお金持ち?」
 入り口で立ち尽くすアネットの脇の抜けて部屋に入ったイナッツが、部屋の中にあるベッドの一つに腰を落として尋ねた。
「いいえ。この部屋は自警団の団長さんに手配していただいたものなので。お代の方も自警団の方で持ってくれるとか」
「自警団のコネ? 団長と知り合いとか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」
「ふーん、何でもいいけどとにかくすごいコトよね。ますます感心しちゃう」
 イナッツは窓のカーテンを閉めると、部屋の方々にある明かりに火を灯し始めた。一つ、また一つとランプに火が灯るたびに、真っ暗だった部屋の中が明るさに包まれていく。アネットは部屋の中に入り、背負っていた小さな鞄を置くと、所在なさげに周囲を見渡した。
「どうしよう……お兄ちゃんを探しに出た方がいいかな?」
「やめたほうがいいと思うわよ」
 最後のランプに火を灯し終え、火種の火を消しながらイナッツが言った。そして彼女は燃えがらとなった火種をゴミ箱に捨ててから、再びベッドへと足を運ぶ。
「一応、フレイ君もここを知ってることだし、変に探しに出てすれ違うくらいなら、万策尽きて彼が帰ってくるのをここで待ってる方が賢明だと思うけど」
「そうですか?」
「そうそう。だからアネットちゃん、ほら、ここに座って。さっきの話の続きでもしない?」
 勢いよくベッドに座り込んでイナッツが手招きする。アネットは最初ためらったが、イナッツの言うことももっともなので、彼女に従うことにした。イナッツはアネットが近付いて来ると、彼女のすぐ隣を手で軽く整えた。そして、整え終わったところにアネットがゆっくりと腰を下ろす。
 それからしばらく、アネットとイナッツはここに来るまでと同じように世間話を始めた。同世代とはいえ都会の色にすっかり染まっているイナッツには、時折ついていけなくなるようなこともしばしばあるものの、概ねにして話は盛り上がりを見せていた。
 そうして話をしていると、不意に部屋の扉が乱暴に開け放たれた。
「アネット!」
 そしてその向こうからフレイが飛び込んでくる。二人は話を止めると、揃って彼に目を向けた。
「あ、お兄ちゃん。お帰り」
 そして、まるで何事も無かったかのようにそうアネットはフレイに言った。フレイは目の前が真っ暗になったような感触を覚えると、その場に力なく腰を落とした。
「あ、あのなあ……俺がどれだけお前の事を心配してたか分かってるのか?」
「やん」
 這いずりながらアネットの下に進み寄ったフレイが目の前にある膝に両手を乗せた。それに合わせて、アネットのものとは明らかに違った女性の声が上がる。
「ん? ……うわっ!」
 顔を上げたフレイは、目の前にいる見慣れない女性の姿に驚いて、その場から飛び退いた。無論、その女性とはイナッツのことである。
「あなたって、積極的ね。いいのよ、もっと触れてくれても」
 イナッツは先程までフレイが触れていた膝に自分の両手を乗せ身体をしならせた。フレイは今度こそアネットの元に這いずり寄って、彼女に尋ねかけた。
「お、おい、アネット。誰だ、この人?」
「え、えーと、この人はイナッツさんっていって……え、と……何て説明したらいいのかしら……?」
 アネットがどう説明しようか困惑していると、横からイナッツが割り込んできた。
「初めまして。あなたがフレイ君ね? 私、今日からアネットちゃんの親友になったイナッツっていうの。よろしくね」
「今日から……?」
 思わず声を揃えてイナッツを見る二人。イナッツはそんな二人に笑顔で受け答えした。
「と、ところで、お兄ちゃんの方こそ、私の知らない人を連れて来ているみたいだけれど?」
 アネットは話題を切り替えるべく、先程から一人、部屋の入り口でじっとこちらのことを見ている少年を指さした。ようやくお呼びがかかったと見るや、彼は部屋の中に入って扉を閉め、アネットが座っているベッドの向かいに立った。
「やっと声をかけてくれたか。俺はバティって言うんだ。俺も今日付けでこいつの親友になったから、よろしくな」
 少年、バティはまだ座り込んでいるフレイの肩を引き寄せた。
「おい、いつ誰が俺の親友になったんだ?」
「だから、今日付けだってさっき言ったじゃないか」
「そういう意味じゃなくってだな……! いいか、俺はそんなこと認めてないからな!」
 バティの言葉が腑に落ちなかったフレイが、小声で彼に文句を突きつける。
「へえ。よかったわね、お兄ちゃん。仲の良さそうなお友達ができて」
「お前も真に受けるなよ!」
 純粋に二人を祝福するアネットに、フレイは悲鳴じみた声を張り上げて否定した。どうしてそこまでして否定されるのか分からず、アネットは目を丸くした。
「そ、それより、バティ。お前の話って、一体何なんだ?」
「なんだ、聞いてくれるのか?」
「仕方ないだろ、そういう約束したんだから」
「随分律義だな。てっきりすっぽかされるもんだと思ってたが」
 バティにそう言われて、フレイは彼の言うことに真面目に従ってしまった自分がひどく馬鹿馬鹿しく思えた。しかし、ここまで来たからにはもう引き返すわけにも行かず、彼は素直にバティの話す内容を聞くことにした。
「実はな、あんたに俺の護衛を頼みたいんだ」
「護衛?」
「ああ。サンタローズって村を知っているか? ここから北に少し行ったところにある小さな山村だ。そこに救世の王の宝があるっていう話でな、これから俺はそいつを取りに行こうかと思ってるんだ」
 救世の王という言葉が出たとき、三人の表情が引き締まった。
「ただな、俺の知ってる奴もそいつを求めて出て行ったんだが、それっきり帰ってこないらしくてな。何か危険な事があるかもしれないから、そこで腕の立ちそうなお前に護衛を頼みたいっていうわけなんだ。なあ、引き受けてくれないか?」
「うーん……」
 フレイはしかめっ面をし、うなり声を上げた。バティの話だと、そこはとても危険な場所であるようだ。確かに先程はカジノで軽妙に男を追い払ったが、フレイは正直自分の腕に自信が持てるほどではなかった。それなのに安請け合いをして何かしら危険な目にでも遭ったらと思うと、どうにも気が進まない。うなるフレイをよそに、イナッツがアネットの耳元に顔を寄せて囁いた。
「アネット。あなた、彼に着いていきなさい」
「えっ?」
「今でこそ表立った史実からは消え去ってしまっているけれど、あの救世の王は歴史上最も優れた魔物使いの一人だったっていう話なのよ。もしかしたら、彼が求めているその宝物に、あなたが誰であるか、それを知る鍵があるかもしれないわよ」
「…………」
 アネットは黙り込み、じっとその場で俯いた。
「悪いが遠慮……」
「バティさん、私を連れて行ってください!」
 バティの頼みを断ろうとしたフレイの言葉を遮って、アネットが声を上げた。突然の事に驚くバティ。しかし、それ以上にフレイがこのことに驚いていた。
「お、おい、アネット! 何を言い出すんだ! こいつの話を聞いて分からないのか? かなり危険の付きまといそうな事なんだぞ?」
「分かってる。でも行きたいの。お兄ちゃんが駄目って言っても、私、一人で勝手に抜け出して着いて行くから」
 頑ななまでに態度を変えようとしないアネット。これまでに見たことのないようなアネットの強情な態度に、しばらくフレイは呆気に取られていたが、やがて小さく舌打ちをして頷いた。
「ああ、分かったよ! 護衛でもなんでも引き受けてやる! だからアネット、あんまり危険な事するなよ、いいな?」
「うん、ありがとう、お兄ちゃん」
「なんだ、おまけつきか? あんまり足を引っ張るなよ」
「ええ、大丈夫です。イナッツさん、あなたも一緒に行きますか?」
 突然アネットに話を振られ、イナッツは飛び上がって身を引いた。
「駄目駄目。私はそういう荒事は得意じゃないのよ。それに、おじいちゃんを放って街を出たら、誰があの人の世話をするの?」
「あ、そうですね」
「それじゃあ、私はこの辺でさよならするわね。また会いましょう、アネットちゃん」
「はい、イナッツさんもお元気で」
 軽く手を振って、イナッツは逃げるように部屋を出て行った。

 それから夜が更けるまでの間、フレイ達はバティから今回の件についてより詳しい話を聞いたり、サンタローズまでの行程について相談するなどした。
 オラクルベリーからサンタローズまでは、歩いて四日ほどかかる。途中、橋を一つ越えなければならず、そこで立ち往生する可能性も踏まえて、旅の食料の買い付けはバティに任せることになった。フレイ達は翌朝はボソム自警団長に呼び出されているので、それを昼までに済ませ、詳しい事情を話した後に、昼過ぎにオラクルベリーを発つことになった。
 そして一通り話が終わった後、どういうわけかバティも部屋にいついてしまい、三人でゆっくりと睡眠をとることになった。
「……まったく、どうしてこんな事になちまったんだ……?」
 ぐっすり眠る二人を見て、フレイは小さくぼやいた。

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